無線ICタグ(RFIDタグ)の業務利用がすっかり定着した2010年ころ。ICタグのベンダーやユーザー企業に突然,身に覚えのない内容のエアメールが一斉に届く。「我々が保有する特許第XX号について,貴社と話し合う用意がある。本年XX月XX日までに誠意ある回答を願いたい」――。

 こんな最悪のシナリオを未然に防ぐため,ICタグの標準化団体「EPCグローバル」が定めた知的財産権(IP)ポリシーが,日本のICタグ関係者の間で議論を巻き起こしている。

 EPCグローバルは,世界の商品コード体系を管理するベルギーの国際EAN協会と米国のUCCが共同で設立した団体で,ICタグ関連のソフト/ハードについて活発に国際標準化活動を展開している。同団体の規格は,従来のバーコード・システムの直系の子孫として,世界中で普及する可能性が高い。

 既報の通り,日立製作所や富士通といった日本の大手ベンダーは軒並み,EPCグローバルのIPポリシーが厳しすぎることを理由に,同団体が進める規格策定作業への参加を見合わせている(関連記事1関連記事2)。「米主導のEPCグローバルが,数多くのICタグ関連技術を持つ日本のベンダーから,ICタグ関連の知的財産をタダで取り上げようとしている」。ニュースを目にした読者のなかには,同団体の動きをこのようにとらえた人も多いようだ。

 しかし今回の問題を,米国の“産業ナショナリズム”の問題として片づけるのは,あまりにも一面的な見方といえる。「EPCグローバルが気に入らないなら,日本独自の規格を作ればよい」という単純な話ではない。

 以下では感情論を排して,EPCグローバルの定めるIPポリシーの意義を再確認してみたい。「日本のICタグ・ベンダーがどうなろうが関係ない」という考えをお持ちの方がいるかもしれないが,いざ特許紛争が起きれば,冒頭のような特許料請求がユーザー企業にも届く可能性がある。将来の危険を最小限にするためにも,今回のIPポリシーの問題をそれぞれの立場で考えてみていただきたい。

JPEG特許紛争の轍を踏まない

 EPCグローバルのIPポリシーは,大きく二つの理念を掲げている。一つは,「知的財産権の徹底的な調査」。同団体への参加企業に対し,自社が申請中の特許などの知的財産を徹底的に調査して報告することを義務づけている。もう一つは,「ロイヤルティ・フリー方針」。知的財産のうちEPCグローバルの規格に関連するものを,原則的にロイヤルティ・フリーで提供することを求めている。

 知的財産権の徹底的な調査に関するICポリシーの文面からは,「JPEG特許紛争の轍を踏まない」という起草者の信念が伝わってくる。

 画像圧縮技術JPEGの規格成立から15年後の2002年,一般には知られていなかった特許が急浮上した。米国のベンチャー企業,フォージェント・ネットワークスが,長らくタダと思われてきたJPEG仕様に自社の技術が含まれていると主張し,デジタル・カメラを製造するソニーと三洋電機からそれぞれ1500万~1600万ドルを引き出すことに成功した。これで勢いづいたフォージェントは今年4月,支払いに応じなかったキヤノン,松下電器産業など31社を提訴した(関連記事)。これがJPEG特許紛争の概要である。

 JPEG特許紛争の背景には,規格策定段階での知的財産の取り扱いに甘さがあったことが指摘されている。しかも現在の特許紛争では,ベンダーだけでなくユーザー企業が訴えられる危険性も付きまとう。EPCグローバルの担当者がICタグ標準化の過程における知的財産調査を,最も厳格な形で進めようとしていることは妥当な姿勢といえるだろう。

 もう一つのロイヤルティ・フリー方針については,先輩格の標準化団体であるW3C(World Wide Web Consortium)にならった理想主義と解釈できる。ここでの理想主義とは「標準技術は無料であるべき」というものだ。

 W3Cの議長を務めるティム・バーナーズ・リー氏は「Webの基盤技術は無償にするべき」との信念を持ち,昨年W3Cがすべての規格をロイヤルティ・フリー方針を策定した際にも指導的な役割を果たした(関連記事)。同氏は著書「Webの創成」(毎日コミュニケーションズ刊)の中で,WWWの前身である「gopher」が普及しかけたころ,ある企業が持ち出した特許により一気に人気を失ったエピソードを挙げている。

 TCP/IPやHTTP,HTMLといった技術が有償だったら,インターネットは今ほど普及していないはずだ。ちなみにEPCグローバルの前身である米Auto-IDセンターとW3Cは,ともに米マサチューセッツ工科大学(MIT)を母体とする兄弟組織である。

日本特有の事情への配慮が不足

 厳格な知的財産権調査,ロイヤルティ・フリー方針といった根幹部分をみる限り,EPCグローバルのIPポリシーは実によくできている。付け加えるなら,ベンダーではなく米ウォルマート・ストアーズなどのユーザー企業がEPCグローバル運営の主導権を握っていることも,市場の要求に則した規格を作るうえで正しい方法といえるだろう。

 記者が取材したところ,日本のベンダーの担当者たちは,こうしたEPCグローバルのIPポリシーが掲げる理念そのものに反対しているわけではない。特許紛争の恐ろしさを知る担当者ほど,むしろその意義を積極的に認めている。

 日本のベンダーが問題にしているのは,主に特許調査に与えられた作業スケジュールのほうだ。EPCグローバルのIPポリシーは,「特許の調査期間は30日」で,かつ「関連会社すべてを調査対象」と定めている。「海外に数百の関連会社を持つ総合電機メーカーが多い」「大量の特許文書を英語に翻訳する必要がある」といった,日本特有の事情に配慮が足りないのは明らかだ。

 ウォルマートや米国防総省は,2005年1月からICタグの大規模採用に乗り出すことを表明している(詳しくは,日経コンピュータ4月19日号クローズアップ「2005年実用化に向け邁進する欧米企業」を参照)。EPCグローバルのIPポリシーは,こうした大規模採用を念頭に置いて“特急”スケジュールを定めているのである。

日本のベンダーに残された時間はわずか

 結論として,米政府がICタグの産業育成に積極的なのは確かだが,EPCグローバルのIPポリシーにまつわる問題の原因を米国のナショナリズムとするのは,ややうがち過ぎと言わざるを得ない。今年3月に開催されたEPCグローバルの全体会合で演壇に立った幹部は,20分あまりの演説の中で,「グローバル」という言葉を10回以上も繰り返したそうだ。EPCグローバルが米国主導の組織とみられがちなのに対し,彼らなりの危機感が表れているとみることもできるだろう。

 とはいえ,日本のベンダーはうかうかしていられない。既に日本以外のベンダーはこぞってEPCグローバルのIPポリシーにサインし,規格策定作業に参加している。同団体によるICタグの標準化作業は,今年秋に大詰めを迎える。これに日本のベンダーが参加できないとなれば,製品の出荷スケジュールやノウハウ蓄積などの面で,欧米企業に対して大きなハンディキャップを背負うことになる可能性が高くなる。

 既に国際的な受注競争において,日本のベンダーは明らかに出遅れている。来年からICタグの大規模採用に乗り出すウォルマートや米国防総省は,ICタグの大量調達を開始している。着々と受注実績を築きつつあるのは,米エイリアン・テクノロジ,米メトリックスなどのICタグ・ベンダーである。米オラクル,米マイクロソフトなどもアプリケーション・サーバーやシステム構築サービスを次々と発表している。

 「EPCグローバル仕様準拠」をうたう,あるソフト開発会社の担当者は「IPポリシー問題から標準化作業に参加できないため,今は人づてに情報収集をするしかない」と苦しい事情を打ち明ける。世界市場を狙う日本の大手ベンダーにとって,残された時間は少ない。

(本間 純=日経コンピュータ)