以下の記事は2007年から2010年にかけて日経ソリューションプロバイダ、日経コンピュータに連載された記事の1つです。執筆時の情報に基づいており、取り上げた製品・サービスには現時点で古くなっているものもありますが、商談の経緯を知ることはユーザー企業にとって有益と考え、再掲しました。

新規顧客である大塚製薬の商談で、若手の営業担当者がミスを重ねた。競合は顧客と長い付き合いがある。京セラコミュニケーションシステムは劣勢だった。にもかかわらず、営業チームには「受注できそうだ」といった楽観ムードが漂う。「このままではまずい」。営業部長はメンバーを叱咤し、最終プレゼンテーションに臨んだ。

 「なぜ、気を緩めているの。今のままでは勝てないわよ」。京セラコミュニケーションシステム(KCCS)でICT営業本部ビジネスイノベーション営業部事業部長を務める早田麻子は、大塚製薬へのプレゼンテーションの2週間前の会議で、営業チーム全員に警告を発した。2009年9月のことである。

 早田の直感は正しかった。プレゼンテーション前、大塚製薬は初めての取引となるKCCSを3社中3番目の評価としていたのだ。

「将来の大口顧客です」

 KCCSが大塚製薬の本社と接点を持ったのは、2009年2月である(表1)。それまで門前払いが続いていたが、KCCS北海道支店と取引のあった大塚製薬の北海道支店長の口利きで、ようやく東京本社のIT部門に訪問できた。早田は、無償のWebサイトの脆弱性診断サ ービスを、大塚製薬のIT推進室課長である周防勝彦に提案。周防は利用を決めた。

表1●大塚製薬が京セラコミュニケーションシステム(KCCS)にリモート・アクセス・システムを発注するまでの経緯
RFP:提案依頼書
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 このころ大塚製薬は、コスト高と使い勝手の悪さ、管理作業の負荷増大を理由に、リモート・アクセス・システムの刷新を決定した。このことを周防からの電話で知った早田は6月、周防をKCCSが主催する1泊2日の大口顧客向けエグゼクティブセミナーに招待した。大塚製薬は顧客ではなかったが、早田は「将来は大口顧客にします」と執行役員に掛け合って周防の参加を認めてもらった。

 早田の狙いは二つ。一つはKCCSという会社の成り立ちや事業内容、顧客を知ってもらうこと。もう一つが「NET BUREAU」というモバイル通信サービスの紹介だ。NET BUREAU用のクライアントツールは、場所に応じて最適なリモートアクセス回線を自動的に選択する機能を備える。IDとパスワードはアクセス手段に関係なく同じものを利用できる。

 早田はイベントで周防のために、NET BUREAUの講演を急きょ追加した。懇親会ではNET BUREAU導入ユーザーの隣に周防の席を用意。ユーザー同士で話をできる環境を整えた。

 イベント終了後、周防は「既存システムの悩みを解消できそうだ」とNET BUREAUに興味を持ち、早田に情報提供を求めた。

「KYな営業なんか要らない」

 ここまでは順調だったが、イベント後から3回目の訪問で、トラブルが発生した。「我々が伝えた内容を何度も繰り返さないでほしい。本題から話していただきたい」。周防の怒声が響いた。

 KCCSの営業チームは、技術的に具体的な話ができるよう、商談の進行に応じて同行する技術担当者を毎回変えていた。裏目に出たのは技術担当者が、「業界の問題は…、御社の問題は…」と同じ発言を繰り返したことだ。

 この事態を、帰社した営業担当者から聞いた早田は、すぐさま詫びの電話を入れて周防を訪問した。「必要最低限のメンバーが専任で対応する」「次回以降の訪問では必ず早田自身も出席する」といったことを約束した。こうして問題は収まり、安心したのも束の間。続く7月、一通のメールが原因で再びトラブルが発生した。

 KCCSはこのころ、NET BUREAUを大塚製薬で使えるかどうかを検証するために有償の試験利用を提案していた。この最中、営業チームの技術担当者が周防に一通のメールを出した。その文面は、試験利用に必要な技術情報の提出を依頼する内容。「検討中であるにもかかわらず、なぜ試験利用を決定しているかのようなことを書いて送ってくるのか」と周防は激怒した。

 さらにこのメールのあて先に、周防以外にIT推進室の担当者3人を入れていたこともまずかった。周防はKCCSの提案内容を3人の担当者に相談し始めたばかり。このメールの内容は、「もうNET BUREAUに決めたのか」と3人から不信感を持たれかねない内容で、周防の社内での立場を悪くする可能性があった。

 同報でメールを受け取っていた早田は、すぐさま周防の携帯電話に連絡。当日、謝罪に出向いた。周防は早田の素早い対応もあって、怒りを収めたが、試験利用はしないと告げた。

 「相手の社内的な立場を考えられないKY(空気の読めない)な営業担当者に、仕事を頼む人はいない」。社内に戻った早田はメンバーを集め、こう叱った。その後メンバーは気を引き締め、早田と8月末まで大塚製薬の課題や競合の状況を聞き出していった。

 大塚製薬は2009年9月11日、KCCSを含むITベンダー3社にRFP(提案依頼書)を提出。プレゼンテーションは約2週間後の9月28日だ。競合は2社で、大塚製薬の既存のリモート・アクセス・システムを10年以上提供しているA社と、WANサービスを提供しているB社だ。

「たいしたツールじゃない」

 9月半ば、プレゼンテーションの内容を決める最初の会議で、早田はメンバーに檄を飛ばした。「たいしたツールではないと自覚しなさい。競合が本気になったら同じものはすぐに作れます。ツールに頼らない提案を考えなさい」。

 早田が活を入れたのは、技術担当者の一言から営業チーム全体の気が緩んでいることが分かり、それに危機感を持ったからだ。「NET BUREAUは周防さんに高い評価を得ているし、早田さんが先方と良好な関係を作っています。おそらく受注できますよ」。

 「A社が通信コストを下げたら、A社に決まりだ」。こう考えていた早田は、新たな訴求点として、通信カードの管理業務の負荷を減らすことに目を付けた。RFPの「運用要件」に注目し、この点を手厚くすることが受注に結びつくと踏んだ。「IT推進室の業務負荷を減らし、さらに継続して改善策を提示するサービスを提案しよう」。早田はそう決めた。

 早田は、KCCSで他社から運用管理サービスを手掛ける部門の担当者に協力を仰いだ。他社向けのサービスで提供している、実際の作業実績・改善レポートの実名部分に墨を入れ、プレゼンテーション資料に盛り込んだ。

 9月28日、プレゼンテーションで早田はNET BUREAUのデモを手軽に終えると、運用管理サービスの説明に時間を割いた。“本命”のA社が安値を提示することを予想していた早田は、KCCSが通信事業者から借りて大塚製薬に提供する通信サービスの料金には、利益をのせていないことを伝えた。採算ぎりぎりの料金を提示していることを知らせるためだ。

 大塚製薬はA社とKCCSの2社で迷った(表2)。最後は、ツールと運用サービスの実績を評価し10月、KCCSに発注した。

表2●大塚製薬が下した各社の評価
*1 最適な通信回線を選択する機能を備える専用クライアントツール
*2 2年間分の通信コストを含む
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