「データ 21世紀の新資源」。

 6月2日付日本経済新聞朝刊の一面トップに、こう大書してあった。「コンピュータのデータなら20世紀から存在している」とつまらぬ感想を抱いたが、読んでみるとビッグデータの話であった。記事によれば、テラバイト単位のデータを指すようである。

 記事冒頭に「目指す先は人間が迷ったり、間違えたりしなくなる世界」とあったので、「迷ったり間違えなくなったらもはや人間ではない」とさらにつまらぬ事を思ったが、人間がわざわざ考えなくてよい案件について手助けしてくれる話なのだろうと考え直した。もしそうなら、人間は考えなければならない大事に集中でき、存分に迷ったり間違えたりできる。

 余計な感想を書いてしまったが、「データが資源」という言葉が新聞の一面に載るのは良い事だと思う。ただし「21世紀の新資源」の面倒は、誰が見るのだろうか。

 ここまで筆を進めてみて、同じ話を以前書いたと思い出し原稿清書用パソコンを検索したところ、1年前の6月7日に本欄で公開した『“大きなデータ”が小さい話で終わる訳』という文章が出てきた。読み直すと「大きなデータ」に関して次の3点を課題として挙げていた。

  • 事業に貢献できる使い方を誰が考えるのか。
  • 「インターネット関連事業で若手技術者が最新技術を駆使する話」に限定されてしまわないか。
  • 挑戦と安全をどう均衡させるか。

古くて新しいデータサイエンティスト

 「事業に貢献できる使い方を誰が考えるのか」に関してデータサイエンティストという役割が指摘されるようになった。日経情報ストラテジー誌によると「ビッグデータを新商品・サービスの開発や業務改革に生かす」人だという(『データサイエンティストは「若手、女性、エコ」から』)。

 「データを新商品・サービスの開発や業務改革に生かす」人なら、20世紀にもいた。ビジネスインテリジェンスアナリストとか、スペシャリストという役割もあった。あちこちのWebを読んでみたが、データサイエンティストのスキルとして挙げられているものは、いずれも20世紀からあるものばかりである。

 一方、データサイエンティストには「ビジネス課題から解くべき問題を見つける力」「データ分析から得られた知識を現場に使ってもらう力」「発想力とコミュニケーション力」が必要という指摘もある(『ナニワのデータサイエンティストは、現場の「こうちゃうか?」を尊重』『データ分析の“便利屋”になるな」、大阪ガスのデータサイエンティストが講演』)。

 この指摘は実にもっともだが、そうすると「データサイエンティストとは、本来のSEではないか」と思ってしまう。物事の本質はほとんど変わらないのだろう。

 もちろん、データがビッグになるのだから何かが変わるはずだ。ただしその点を強調し過ぎると、「インターネット関連事業で若手技術者が最新技術を駆使する話」が前面に出てきてしまう。

 若手が最新技術を駆使するのは大いに結構だが、「人間が迷ったり、間違えたりしなくなる世界」を目指すというなら、「既存事業でベテランや中堅技術者が従来技術を駆使する話」も欠かせない。人間は既存の世界に住んでいるから、「21世紀の新資源」だけではなく「20世紀の従来資源」も生かさないといけない。