ITproの連載『ひとつ上のヒューマンマネジメント』の著者である芦屋広太氏と、『ダメな“システム屋"にだまされるな!』など“システム屋"シリーズの著者である佐藤治夫氏の対談も中盤に差し掛かった。

 前回は「叱り方」がテーマだったが、今回は、IT業界で働く人が備えるべき技術力・スキルについて語ってもらった。特に「この道30年の“システム屋”」を自任し、いくつかの企業やフリーランスのITコンサルタントとして業界内を渡り歩いてきた佐藤氏の意見は参考になりそうだ。

(聞き手・構成は清嶋 直樹=PC Online


前回は部下の「叱り方」の話題でしたが、お2人も新人だった時代がありますよね。社会人になったのはいつ頃ですか。

芦屋:1990年です。

佐藤:私は1979年です。芦屋さんとは10年ぐらい違うわけですね。芦屋さんが新人だった頃だと、インターネットとかWindowsはもう出ていましたか?

芦屋:あったでしょうが一般的ではなかったと思います。NECのパソコン「PC98シリーズ」とか、ワープロの「ランワード」、表計算の「ロータス1-2-3」あたりの時代ですね。ハードウエアでは「インテリジェントワークステーション」が出てきて、「ダウンサイジング」ということが言われ始めた頃でしょうか。

 でもパソコンは1人1台というわけではなくて、まだ特別な物という感じでした。ワークステーションも3000万円ぐらいした時代でしたね。

佐藤:私も、何となくその時期のことを思い出します。当時在籍していたシステム企業で私は、1993年頃にOSに「Windows 3.1」を搭載したパソコンを業務用クライアントとして法人向けに販売するという決定に関わりました。今でこそ業務でパソコンを使うのは当たり前ですが、当時は「それは危ない」というのが世間の雰囲気だったように思います。

プログラムを鉛筆で手書きした時代

芦屋:佐藤さんが入社した時代のコンピュータはどんなものでしたか?

佐藤:入社当時のコンピュータと言えば、メインフレーム(大型汎用機)でした。プログラムのソースコードを「コーディングシート」という紙に鉛筆で書き込んで、これをパンチ専門会社で一定の規則で穴を空けたカードにしてもらって、これをさらにカードリーダーから大型機に読み込ませる、という流れでした。「紙と鉛筆」でプログラムを手書きするという時代だったのです(関連記事)。

なるほど。私はその頃は生まれたばかりだったと思いますが、話を聞くだけでもコンピュータ技術の進化の速さが分かります。この変化のために、システム技術者の“35歳限界説”が言われることもありますが。