2000年の秋に,私は「スーパー・スターがメディアから消える日」(PHP研究所)という本を出した。スーパー・スターといってもスポーツ選手から映画俳優,コメディアンなどいろいろだが,原稿を書きながら頭に思い描いていたのは,CDを何百万枚も売り上げるきらびやかなポップ・ミュージシャンたちだった。

 「デジタル技術が社会にあまねく普及することによって,強大なレコード会社(もっと一般的にはメディア企業)と一般消費者のパワー・バランスが逆転し,その結果スーパー・スターはいずれ消滅する」というのが,同書の趣旨である。出版から2年以上経った今でも,この予想に変わりはない。いや今や,予想は確信に変わりつつある。現在の音楽産業を見ると,「スーパー・スターが消える日」は,刻一刻と近づいているように思える。

 米国市場の音楽CD売り上げは,2000年から3年連続で下落した。特に2002年は前年比で10%近く落ち込んだ(今年も間違いなく下落しているはずだ)。日本や欧州でも,似たような状況である。もはやミリオン・セラーのCDは,数えるほどしかないはずだ。レコード業界不振の理由についてはいろいろな説がある。しかし3年連続で,しかも下落幅は年々拡大しているとなると,これは一時的な不調というより,構造的な要因に基づいていると見るのが自然だ。

 その要因とは間違いなく,インターネット上のファイル交換サービスの存在である。音楽CDの売り上げが減少する一方で,ファイル交換サービスで入手した海賊版の曲を焼き付けるための,ブランクCDやポータブル・プレイヤの売り上げは急増している。レコード業界の売り上げ減少は,決して不況のせいにはできないのである。

ファイル交換サービスや交換ソフトに無罪判決

 先月,米連邦地方裁はファイル交換サービス「Grokster」と「Streamcast」に対し,「無罪放免」の判決を下した。2001年にNapster(ファイル交換サービスの元祖)を閉鎖に追い込んだ判決から,180度の転換である。実は,このちょっと以前にオランダで,同様のサービスKazaaに対し無罪判決が下されており,潮の流れはこの辺りから変わりつつあった。

 もちろんRIAA(全米レコード協会)を中心とするレコード業界は控訴する方針で,今後の行方は予断を許さない。しかしNapster以降,紆余曲折の道筋を振り返って見ると,大きな流れとしては,音楽はレコード会社のコントロールから解放される方向にある。

 Napsterは法律でつぶされたのに,「Grokster」や「Streamcast」などの後発サービスは,なぜ「OK」のサインをもらったのか。簡単に言うと,ファイル交換方式の違いのせいだ。

 Napsterのサービスでは,ユーザー同士が海賊版ファイルを直接交換することができない。すなわち両者の間に,Napster社が管理する中央コンピュータが介在する。ここで膨大なファイル交換を一元管理している以上,海賊版ファイルの交換に対し,同社は責任を持たざるを得ない。つまりNapster自体が,「海賊版の交換を行っている」と判定されたのである。また「業者(Napster)が一元管理している以上,彼らのコンピュータを停止させれば,海賊版の交換をやめさせることができる」という便宜的な理由もあった。

 一方,新たに登場したGroksterやStreamcast,Kazaaなどでは,この中央コンピュータが要らなくなった(完全分散型)。ファイル交換の処理作業は,インターネットにつながった世界中のパソコン(個々のユーザーの所有物=責任)に分散される。Groksterなどのサービスは,単に交換ソフトというツールを,ユーザーに提供しているに過ぎない。

 実際に海賊版ファイルの取引をしているのは,一人一人のユーザーである。したがって,「ファイル交換サービス自体の責任は追及できない」というが,判決の法的根拠なのである。また,ここでも同じく,「完全分散型である以上,仮に業者を取り締まったところで,海賊版の交換を食い止めることはできない」という便宜的な理由がある。

 「ファイル交換ソフト」その物には罪が無いのだろうか。「罪が無い」というのが,オランダや米国の裁判官の考えなのだ。これには判例がある。1984年に米最高裁が下したSony Betamax(VCR)判決である。

 当時,登場して間もないVCR(Video Cassette Recorder:日本ではVTR) は,テレビ番組や映画の違法コピーに使用される恐れがあるとして,米国のエンターテイメント業界はVCRの発売停止を求める訴えを起こした。裁判は最高裁まで持ち込まれ,判事5対4の僅差で「VCRは合法」との最終判決が下された。その後の経過は,ここに紹介するまでもない。VCRは我々の生活を文句無く豊かにした。そして,これによって放送・映画産業は衰退に向かうどころか,より一層,繁栄した。米最高裁の判断は正しかったのである。

 Sony VCR判決の決め手となったのは,「VCRというツール自体には罪が無い」という考え方だった。VCRは確かに映像ソフト海賊版の製作に使うこともできる。しかしテレビ番組をちょっと録画したり,家族旅行の様子を撮ったりと,全く合法的な目的にも利用できる。それを決めるのは消費者である以上,VCRという技術自体を禁止するのは妥当性に欠けると裁判官は考えたのである。

 この判決から20年近くが経過した今,新たに登場したファイル交換ツールに対し,裁判官は全く同じ解釈を示し,これを認可したのだ(少なくとも今のところは)。

音楽配信ビジネスで1曲の価格はどう変わるか

 今回の判決を受けて,米国のレコード会社は2通りの動きに出た。一つはファイル交換サービスで海賊版を交換するユーザーを個別に告訴すること。もう一つは,自らインターネット上で音楽配信ビジネスに乗り出すということである。前者については,気の遠くなるような作業にも思えるが,一部のヘビー・ユーザーに的を絞れば,それ以外の大多数のユーザーを“脅す”という意味で,それなりの効果はあるようだ。

 しかし,より建設的な努力といえば,後者(音楽配信ビジネス)だろう。これは先週紹介したように,米Apple Computerの進出によって,レコード会社もようやく本腰を入れざるをえなくなった(記事へ)。

 インターネットを使った音楽配信ビジネスでは,1曲の価格を今より劇的に下げなければならない。先週の記事では「1曲50セントくらいにすれば,売れるだろう」と書いたが,それ以後ちょっと調べてみると,その程度では済みそうにない。Kazaaを中心とするファイル交換サービスをつぶさない限り,配信する曲の値段はいずれ10~20セント位まで落ちるだろう。これでは仮にミリオン・セラーを記録しても,せいぜい数十万ドルの売り上げにしかならない。レコード会社は,ミュージシャンのプロモーション費用すら稼げない。

 このようにオンライン化を控えた音楽ビジネスは,メディア企業にとって昔のようにうまみのあるビジネスではなくなり始めている。今年,メディア・コングロマリットの一つVivendiは傘下のUniversal Musicを,あのAppleに売却しようとしたが,これがまさにその証拠であろう(最終的に売却は成立しなかった)。

 音楽ビジネスが,メディア企業のお荷物になりかけているのである。こうした事態が構造的に定着すれば,レコード会社はもはや素質のあるミュージシャンを,かつてのように潤沢な金と手間をかけて売り込むことはできなくなる。また音楽商品の売り上げが落ちれば,当然ながらトップ・アーティストの収入も激減する。まさに「スーパー・スターが消える」のである。

「スーパー・スター」の登場は“歴史的幸運”の産物だった

 「お金がすべてじゃないでしょう」というご意見は当然あろう。収入は落ちても,オンラインでより多くの人に素晴らしい曲を聴かせてあげることができるなら,それはむしろ高く評価されるべきことであろう。

 しかし動く金が少なくなれば,「スーパー・スター」という呼称に相応しい,いわゆる「オーラ」や「カリスマ」という要素は失われる。それらは実は,アーティストを売り込むPR会社が巧妙に作り出したイメージ(虚像)だからだ。金がなくなれば,「オーラ」も「カリスマ」も消えてしまう。逆に言えば,最初から,その程度のものなのである。騙されてはいけない。

 アーティストに訪れるインスピレーションは,確かに本物の才能である。そこまで疑ってかかる気はない。しかし,その一瞬の輝きが,数億円の豪邸やヨットや高級車に値するかは大いに疑問である。それらは才能や努力よりも,むしろコマーシャリズムの産物である。20世紀後半に生まれたスーパー・スターは,技術とエンターテイメントの融合という類稀な歴史的幸運(偶然)のお陰で,本来の素質や努力以上の収入や名声を手に入れた。

 こんなことを書く私を,共産主義者と勘違いしないでほしい。ただ「株価と同じで,右肩上がりのグラフはこの社会に存在しない」と言っているだけだ。21世紀は,上昇を続けたグラフが下降に向かうのである。

 「ファイル交換市場が自分たちの収入を奪っている」と大騒ぎする一部アーティスト(こういう人たちに限って,今までシコタマ儲けている)は,何も分かっていない。彼らに訪れた過度の幸運(巨万の富)を平準化する現在のデジタル技術は,歴史の必然として登場したのである。この流れに抗うことは最早,不可能である。