つまり問題は,SEの管理職であるSE課長やSEマネジャ,記者の管理職である編集長やデスク(記者の原稿を読んで修正指示を出す人)は魅力的な仕事だろうか,ということである。厳密に言うとデスクは管理職ではないが,話の都合上,部下を持つ役職にしておく。多くのSEの方々にとって,管理職は将来なりたいポストであろうか。記者にとって編集長やデスクは目指すべきポジションであろうか。

 デスクの仕事を通算6年ほどこなした経験から言うと,デスクはある意味で自分を殺し,若手をたてる仕事なので,人によって向き不向きがある。早い話が「このテーマなら自分のほうが面白い原稿を書ける」などと考える人,「この企画はかくあるべし」と決めつける人はともにデスクには向かない。40歳を過ぎてなお,あちこちのWebサイトでコラムを書いている人も,やはり向かないような気がする。

 ところがここに「SEマネジャはSEが目指すべき一つの仕事であり,やりがいがある」と執拗に主張してきた人がいる。馬場史郎氏である。馬場氏は日経コンピュータ誌に延々と,SEマネジャあるいはSEのことを連載してきたので,お読みになったことがある方も多いと思う。先頃発行された日経コンピュータ5月30日号をもって,馬場氏は連載を終えた。馬場氏のSEマネジャ関連コラムは1997年10月から始まったので,実に7年8カ月という長期連載になった。多種多様な雑誌を出版している日経BP社の中にあって,8年近い連載は最長不倒記録であろう。

 馬場氏の連載は『SEを極める50の鉄則』『信頼されるSEの条件』という題名の単行本になっている。この本の編集は筆者が担当したが「SEマネジャと付けたら本は売れない」ということで,こうした題名にした。とはいえ,97年10月から始まった一番最初の連載題名が「できるSEマネジャの条件」となっていたことからお分かりのように,馬場氏の問題意識はSEマネジャの存在価値にあった。馬場氏が言いたかったことは至極単純である。「顧客,ビジネス,部下の育成に目配りできるSEマネジャがいてこそ,顧客満足度は高まり,ビジネスもうまく行き,部下が育つ」というものだ。

 ちなみに馬場氏について「SEの神様」という表現をみかけたことがあるが,これは二重に間違っている。馬場氏は見かけはただのおじさんであるし,本人が書いているように特段優秀なSEではなかった。ただし優秀な後輩を育てたSEマネジャであったことは事実である。

馬場史郎氏とどこで会ったか

 8年近い連載を終えるということで馬場氏は日経コンピュータ5月30日号で通常の2倍にあたる4ページ分のコラムを書いているが,その中に筆者のことがかなり出てくる。というのは,筆者が馬場氏に連載を依頼した担当編集者であったからである。ここまで書いて思い出したが,筆者は記者を本職とするものの,諸般の事情により,編集者の仕事もやっている。先に述べたように,馬場氏が出した2冊の単行本の編集も筆者が担当した。

 馬場氏は「最終回にあたって連載秘話を披露する」などど言って,連載開始に至る経緯を書いているが,筆者が読んだ限り,細部の事実関係にいくつか誤りがあった。随分昔のことだから,馬場氏の記憶は曖昧になっているのであろう。例えば馬場氏は「彼(筆者)とはIBM在籍時に何度かお会いしていた」「彼には,『馬場さんは,社内でSEマネジャの本を書いた人ですよね。そのうち日経コンピュータに何か書いてもらえませんか』と言われた」と書いている。

 筆者の記憶では,日本IBMに在籍していた時の馬場氏には1回しか会っていない。確か91年~93年のどこかの時であり,場所はIBMユーザー会の懇親会場であったはずである。馬場氏は彼の上司とともに懇親会場にいた。筆者はその上司を知っていたので上司に話しかけ,成り行きで馬場氏と名刺交換をした。

 なぜ91年~93年かというと,この3年間,筆者は今はなき「日経ウォッチャーIBM版」というニューズレターの編集部に所属しており,このとき馬場氏に会ったはずだからである。当時は,IBMおよびIBMユーザーの取材だけをひたすらしていた。余談だがこの3年間,筆者は30代前半であり,記者としてピークだったと思う。

 馬場氏とは名刺交換をしただけだが,馬場氏の一言は印象に残った。IBMウォッチャー版はIBMのことなら何でも書いてしまうので,IBMから蛇蝎のごとく嫌われており,初対面のIBM社員は顔をしかめるか,「どうやって情報を入手しているのか」と聞いてくるのが常であった。しかし馬場氏は「記者さんというのはすごいですね。私も文章を書いてみるのですがとても記者さんのようには書けません」と言った。筆者は冗談のつもりで「では今度ウォッチャーに何か書いて下さい」と言って別れた。この時には,馬場氏がSEマネジャについて冊子を書いていたことは知らなかった。

長期連載の功労者

 ここからが問題である。馬場氏が日経コンピュータに書いた,連載開始に至る経緯は「事実と違う」と言い切れるのだが,ではどうだったか,筆者がいつどのような考えで馬場氏に依頼したかとなると,ひどい話だが思い出せない。ひょっとすると筆者の記憶のほうが曖昧なのかもしれない。