経済産業省が「ITスキル標準」を公開してから,約2年半が経過した。ITスキル標準とは,企業情報システムなどの開発に携わるITエンジニアの職種やスキルレベルを定義したものだ。ベンダーに加えて,ユーザー企業の情報システム部門で人材育成に活用するところも現われてきており,ITスキル標準はIT業界に着実に普及しつつある。

 この5月には,組込みソフト開発の分野でも同様のスキル標準が登場した。それが「組込みスキル標準(ETSS)」である。策定を進めたのは,やはり経済産業省だ。経済産業省の「組込みソフトウェア開発力強化推進委員会 組込みスキル標準領域」と,情報処理推進機構(IPA)のソフトウェア・エンジニアリング・センター(SEC)は,5月に「組込みスキル標準(ETSS)Version1.0」を公開した(関連記事IPAのページ)。

 ETSS策定の目的は,主に組込み機器向けのソフトを開発する組込みエンジニアの育成と人材活用のベースとなる「モノサシ」を提供することである。内容は,(1)組込みソフト開発に必要なスキルを体系的に整理した「スキル標準」,(2)組込みソフト開発エンジニアの職種・専門分野と7段階の「キャリアレベル」ごとに必要なスキルを定義した「キャリア基準」,(3)組込みソフト開発に関する人材育成のための「教育カリキュラム」の3つで構成される。日経ITプロフェッショナル6月号では,いち早くETSSを取り上げその概要を解説したので,ご覧いただきたい。

膨れ上がる組込みソフトウエアの規模

 ETSSが登場した背景には,「組込みソフトの開発がますます困難になっている」(ETSSの作成にかかわった渡辺登・情報処理推進機構 ソフトウェア・エンジニアリング・センター研究員)という現実がある。最近,組込みソフトが原因となって引き起こされる製品のトラブルや品質低下が増えている。それはソフト開発の難易度が高まっていることと決して無縁ではない。

 組込み機器用のアプリケーションは日を追うごとに大規模になり,企業情報システムの業務アプリケーションと変わらない複雑なソフト開発プロジェクトが増えてきた。NECの丸山好一・執行役員兼ソフトウェア事業企画室長によれば,「自動車,携帯電話,情報家電などの各領域で,ここ3~5年の間に組込みソフトの開発規模は5~10倍の数百万行レベルに達した」という。例えば携帯電話のソフト規模は昨年の段階で500万行にもなっている。

 そうした状況に開発現場は追いつけていない。組込みソフトの開発現場は,慢性的に人手不足である。携帯電話のソフトを開発するある若手エンジニアは,「大規模化に対応したプロジェクト体制になっていない。現場にしわ寄せがきており,徹夜と休日出勤は当たり前だ」と過酷な状況を打ち明ける。

 このままでは品質の確保がますます困難になることは目に見えている。組込みソフト開発の世界では,優秀な組込みエンジニアを数多く育成することと,効率的に開発する仕組みの整備が急務となっている。その解決策の1つとして期待されているのがETSSというわけだ。

組込みエンジニアへの転身のハードルが下がる

 また今,組込みソフト開発の現場では,企業情報システムの開発経験があるITエンジニアの活躍も期待されている。企業情報システムと組込みソフトの開発は,もちろん様々な違いがある。組込みソフトは,メーカーや機種ごとに全く仕様が異なるハードウエアとすり合わせながら開発しなければならない。また,「使用可能なメモリー・サイズやリアルタイム性,省電力など,ソフト開発に厳しい制約条件がある。求められる安全性や信頼性のレベルも極めて高い」(SECの渡辺研究員)。自動車や鉄道などのソフトにバグがあると人命を奪う事故につながりかねないのだから,当然のことと言えるだろう。

 そうしたソフトを開発するために,従来の組込みエンジニアは,メカトロニクスやエレクトロニクスに関する専門的な知識,スキルを備えている必要があった。企業情報システムを作っているITエンジニアから見るとハードルの高い世界だったのである。

 だが,状況は変わってきた。ハードルは次第に下がり,企業情報システムの開発経験者が組込みソフトの開発現場で活躍するケースが増えてきた。実際にCSKでは「ソフトウエアの実装部隊に関しては,業務系から組込み系への異動は頻繁に行われており,ほとんど違和感なく対応できる」(CSKの磯村和彦・組込みシステム事業本部付部長)という。

まだまだ発展途上段階のプロジェクトマネジメント

 なぜITエンジニアが活躍できるようになってきたのか。その理由として,組込みソフトの開発環境が整ってきたことが挙げられる。CSKの磯村氏は,「今や多くの機器がOSとしてLinuxやT-Engineなどを搭載しており,アプリケーション開発環境が充実している。一昔前のUNIXワークステーションに近い感覚でアプリケーションを開発できるようになりつつある」と語る。

 ソフトの開発対象も変化している。LSIやメカの制御だけではなく,ユーザービリティなどを向上させるソフト開発の比率がどんどん高まっている。Linuxや商用UNIXでのアプリケーション開発経験を持つエンジニアにとっては,活躍できる場が確実に広がりつつある。

 また,システム開発プロジェクトを指揮した経験を持つプロジェクト・マネジャもその手腕を発揮できる。NECの丸山氏は,「組込みソフト開発分野の管理技術は,企業情報システム開発と比べると弱い」と語る。特に大規模なシステム開発の経験を持つプロジェクト・マネジャは極めて価値が高い。

 企業情報システム開発のスキルや経験は,組込みソフトの開発においても必ず生かすことができる。組込みシステムの開発現場が企業情報システムと同様に厳しいことは確かだ。だが「自分が開発に携わった製品を多くの人が手に取ってくれる」,「国際的なマーケットを舞台に仕事ができる」といった喜びを味わえるのは,組込みエンジニアならではと言えるだろう。今後,ITエンジニアにとってのキャリア選択肢の1つとして,組込みエンジニアへの道がクローズアップされてくるはずだ。

(鶴岡 弘之=日経ITプロフェッショナル)