「システム設計も進捗管理も大事だけれど,一番重要でかつ難しいのは,何をしたらよいのかを考え出すことだね。これって日本全体の最大課題でしょう。新しいことをしないのだったら,システムなんか作る必要はありませんから」

 情報システムを当初計画通りに構築・運営できない,いわゆる「動かないコンピュータ」の問題に関して,あるシステム・コンサルタントと話していたとき,こう言われた。このやりとりをしたのはもう10年も前のことであったが,今でもよく覚えている。

 忘れずに頭の片隅にずっと引っかかっていた理由は,その当時,彼の言っていることがすんなりと腑に落ちなかったからだと思う。頭では理解できたものの「その通り」と膝を打つことはなかった。10年前,筆者は日経コンピュータという雑誌の編集部にいて,四六時中,情報システムのことばかり取材していたからかもしれない。

 今回の原稿を書くにあたり,10年前の会話を思い出してみた。なぜ情報システムの構築はなかなかうまくいかないのか,というテーマであれこれと雑談し「クライアント/サーバー方式への移行の難しさ」「Windows NTの信頼性」など,今となっては懐かしい,ただし当時は非常に関心を集めていた技術的課題について話をした。一通りの話が終わったとき,そのコンサルタントは冒頭の発言をして,次のように続けた。

 「仕事柄,企業の経営者から『情報システムの舵取りで失敗しないために,どう気を付けたらよいか』とよく聞かれる。そのたびに『技術はそれほど問題ではありませんし,プロの我々がなんとかします。それより,御社として何をしたいのか,ビジネス上の意思を早目に表明していただけませんか』と頼んでいる。だけれども,これがなかなか分かってもらえなくてねえ」

 読者の皆様には,釈迦に説法となるが,情報システムの構築にあたって,システムの要件をきちんと定義しておくことが重要である。ただし,本稿で問題にしているのは,もう少し広い範囲の「要求」を整理する,あるいは「構想」を作る,といった領域である。カタカナを使えば,コンセプト・メイキングとでも言うのだろうか。煎じ詰めれば,経営者あるいは事業責任者の「これがやりたい!」という意思,思い,決意のことである。

 意思表示に「問題がある」,ましてや「意思表示がない」ということは本来あり得ない。企業の経営者や事業部門の長など,ビジネス側の責任者がやりたいことを説明し,それを受けて情報システム部門やシステム・インテグレータといった,ITの専門家が要件を整理し,システムを設計・開発・運用する。これが通常の役割分担と言える。

思いつかないから決められない

 しかし現実には,ビジネス側が何をしたいのか思いつかず,彼らのやりたいことや意思がIT専門家には見えないことがある。IT専門家に要件定義の力や,インタビューのスキルがあったとしても,そもそも聞き出すものがないのでは,要件の取りまとめなど不可能だ。もちろん,ビジネスの環境変化が激しく,将来の構想がまとめにくいという問題はあるが,恐ろしいことに本当に自分のやりたいことを整理できない企業も存在する。悪く言うと,何も考えない企業,ただ生きている企業である。

 「思いつかないから決められない」企業に遭遇したIT専門家はやむをえず「たぶんこんなことをしたいのだろう」と想像し,とりあえず開発を進めることになる。予算をとって開発プロジェクトを動かす以上,ビジネス側は「業務革新」「顧客対応の高度化」などと一応の大義名分を掲げているのだが,地に足がついていないというか,ビジネス側の担当者ですらお題目をあまり信じていない。お互い,決めた日程通りに仕事はなんとか進めているものの,根っこに矛盾を抱えたままなので,納期が迫ってきたころに問題が表面化し,要件定義のやり直し,時にはプロジェクト自体の見直しに至ってしまう。

 またもう一つ昔話を思い出した。これも日経コンピュータの仕事であったが5年前に,IT産業で仕事をしている若手を集めて座談会をした。仕事に関して何が一番困るか,と彼ら彼女らに聞いたとき,若手コンサルタントがこう言った。

 「お客さんが何をしたいかはっきりしていないのは一番困りますね。どんな成果物を納めても『違う』って言われてしまうので疲れます。直接話ができればまだいいですが,大手コンピュータ・メーカーが間に入るともっとひどい。メーカーの営業担当者って,お客に『できます』としか言わないから」

 彼はこう締めくくった。「将来を見据えた構想がはっきりしていて『私はこういうことをやりたい。そのために,こんなシステムがほしい』と言ってくれたら,どんなに厳しいお客さんでも,こっちは張り切って最高の仕事ができますね」

the alteration of what is established

 筆者は思うところあって,今から3年ほど前に日経コンピュータ編集部から離れ,ビジネスとテクノロジーの境界線に位置する新雑誌の開発にかかわった。この新雑誌が本欄で何回かご紹介した日経ビズテックである。2004年6月に一冊目を出してから,この6月でちょうど1年経った。これまで発刊した6冊の概要を「情識」のトップページに掲示してあるので,お時間のある方はぜひご覧になっていただきたい。

 筆者の「思うところ」は実にたくさんあったのだが,その一つは「IT専門家の方々だけではなく,ビジネス側の考えをもっと聞いてみたい。そしてビジネス側に発信したい」というものであった。いくらIT専門家が腕を磨いたとしても,ビジネス側が何をするのか,はっきりしてくれないことには,腕の振るいようがない。

 そこでIT関係者ではなく,製造業やサービス業の経営者,事業部長あるいは新しい製品やサービスや技術を開発したイノベーターの方々に意識的に会うようにした。こうした「IT専門家以外の方々」から異口同音に言われたのは「日本にはイノベーションが必要。だが,それをどう進めるかが課題」ということであった。ここで言うイノベーションとは「技術革新」ではない。今までの延長線上にはない,不連続なことをする,といった意味である。

 オックスフォード辞典によると「innovation」とは「the alteration of what is established by the introduction of new elements or forms」であるから,既存の何かに新しい要素を入れ,既存のものを代替すれば,それらはすべてイノベーションの範疇に入る。最新技術の導入とか新商品の開発といった,技術・製品がらみの取り組みだけがイノベーションではない。新しい販売方法の導入,物流革新,サプライ・チェーンの組み替え,アフター・サービスの新機軸など,いずれも立派なイノベーションである。

 どのようなイノベーションであろうとも,なんらかの情報活用は欠かせないから,ITは必ずといってよいほど関係する。ひょっとすると,数あるエンジニア職種の中で未来永劫,仕事があるのは,情報関連かもしれない。もちろん「イノベーションを支援できるIT専門家」という条件を満たしていればの話である。というわけで繰り返しになるが,企業の経営者やビジネス・リーダーが広義のイノベーションを考え抜き,IT専門家がイノベーションを後押しする情報システムの設計・開発・運用を担う,というのが基本の構図になる。

 一昔前であればこの構図は成立していたのになあ,と思うことがある。日本IBMで社長・会長を務めた椎名武雄最高顧問は「お客さんの経営トップがよい意味の無理難題を言い,我々コンピュータの専門家がそれに答える。双方が一体となって取り組まないと,いいシステムは作れない」とよく言っていた。

 椎名氏が「私の髪を白くしたプロジェクト」と言ってよく挙げた例は,製鉄会社のオンライン・システムと新聞社の電子制作システムであった。どちらも「コンピュータで生産ラインを制御し,少人数で運営できる製鉄所を作る」「コンピュータで新聞を作りたい」という経営者の強い意思からプロジェクトが始まり,その当時としては世界最先端の情報システムが完成,大きなイノベーションを達成した。

 その当時は,日本におけるコンピュータ導入の黎明期であったから,既存の業務をコンピュータに載せてオンライン・リアルタイム処理にするだけで,十二分な投資対効果を得られた。コンピュータを入れるだけで,ビジネスのイノベーションにつながった面があった。そうした時代はもう終わってしまった。今日,イノベーションの具体策がなかなか出てこない所以である。

全体を把握する頭

 それでは,イノベーションはどうしたら達成できるのか。日経ビズテックの仕事を通じて,イノベーターと呼べる人々にどのような創意工夫をしてきたのか尋ねてみた。すると成し遂げたことは千差万別であっても,イノベーションの勘所については,どの人にも共通点があった。

 乱暴にまとめてしまうと,イノベーターの方々は「全体を把握できる頭」を持っていた。うまい表現ではないが,こういうことである。イノベーションを達成した方々はそれぞれ,技術や販売といった得意分野を持つ専門家なのだが,自分の専門外のことまで頭がよく回る。例えばイノベーターは顧客にしばしば会い,自分の専門外のことも話して,顧客とコミュニケーションをとれる。新しいアイデアを顧客の立場から考え出す必要があるからだ。顧客の言いなりになる必要はまったくないが,顧客のことは知らないといけない。同時に,社内外の専門家と素早く協業する必要があるから,イノベーターの方は自分の専門と異なる知識を持つ人達とのネットワークを上手に築いている。

 IT Proの読者に身近な例を挙げよう。セイコーエプソンが1兆円企業になった原動力の一つは,家庭向けインク・ジェット・プリンタの大ヒットである。このイノベーションを牽引してきた花岡清二氏がこの4月1日,エプソンの社長に就任した。日経ビズテックの第7号(5月26日発売,目次概要はこちら)に,将来を担う技術者像というテーマで花岡社長に寄稿していただいた。その中で同氏は新しいことができる人材を「頭の中に多軸を持っている」と表現している。

 顧客,ライバル,技術といった「軸」を立てておき,常に複数の軸にそって物事を考え,仕事をこなしていかないとイノベーションにはつながらない。これが花岡社長のキー・メッセージである。新しい製品のコンセプトを思いついたときには,顧客の軸を考えて,そのコンセプトが受け入れられるかどうかを検討する。競争の軸と技術の軸も忘れてはならない。

 花岡社長によると,30代のはじめに業務用プリンタの仕事を全部一人で担った経験が大きな財産になった。たまたま人がいなかったため,製品の企画,設計,製造,販売,顧客サポートまですべてを担当させられた。一連の仕事を通じて,頭の中に軸を複数置けるようになったそうだ。

 「若いころに全体像を把握した」。これもイノベーターの方々が異口同音に語ることであった。あらゆる仕事について分業が進んでしまった現在,誰でもこうした経験ができるわけではない。実際に経験できなければ何らかの方法で,すべてを経験した人と同じように全体を把握でき,複数軸で物事を考えられる能力を身に付ける必要がある。当然この能力はビジネス側のイノベーターだけではなく,IT専門家にも求められる。なんとも煮え切らない企業に遭遇した場合,IT専門家からビジネス側に働きかけて「イノベーションを起動する」ことだってありえるだろう。それには「ITの軸」に加え「ビジネスの軸」を頭の中に用意しなければならない。