ITスキル標準(ITSS)の普及に,ようやく勢いがつき始めた。ITSSのことはご存じの方も多いと思うが,IT人材に求められるスキルやキャリア(職業)を示した指標である。11職種38専門分野ごとに,最高7段階のスキル・レベルを設定している。さらに,それぞれのレベルについて,要求される業務経験や実務能力,知識を定義したものだ。

 2002年12月に経済産業省が公開してから2年が経過し,ITSSを活用する企業が増えている。ユーザー企業では,製薬大手のファイザー,東京電力,松下電器産業など大手が昨年から採用に乗り出している。一方ITベンダーは,いち早く手をつけたNECソフトのほか,新日鉄ソリューションズ,NTTソフトウェア,日立システムアンドサービスなどが,相次ぎITSSの活用に着手した。

 加えて,損保ジャパン・システムソリューションなどのシステム子会社もITSSの利用を進めている。こうしたITSSの現状については,日経コンピュータ3月7日号特集「離陸するITスキル標準」に掲載しているので,そちらを併せてご覧頂きたい。

 これらの企業がITSSの導入に踏み切った理由は,「ITSSは人材育成に大いに活用できる」(東京電力の田子友延システム企画部部長)と見ているからだ。ITSSは個々の人材にとっては,自分に足りないスキルを把握し,プロフェッショナルとしてどんな方向に進むべきかを考える資料となる。一方,企業は社員育成の指針として活用できる。

 例えば,高い専門性を持った人材を評価・認定する「プロフェッショナル認定制度(技術認定制度)」のモデルとして,ITSSを使う企業が増えている。以前からIT人材には高い専門性が求められていたにもかかわらず,多くの企業はプログラマやSE,プロジェクト・マネジャといった単純な分類しか採用していなかった。これに対し,ITSSではIT業界で働く人材を11職種38専門分野に分類している。このことを考えると,ITSSの登場がもたらしたインパクトは決して小さくないと言えるだろう。

単価引き下げや賃下げに使われる例も

 ただしこのようにITSSが浸透する一方で,ITSSを“敵視”する声が中堅中小企業や個人の一部から出始めている。外注単価の引き下げや,エンジニアの賃下げの道具としてITSSが使われる例が見られるからだ。

 いち早くITSSの活用に乗り出したある中堅ベンダーでは,事実上の“降格基準”として使っている。このベンダーは2004年春,ITSSを使った専門職制度に移行した。同制度は「S」や「A」など5段階の職務グレードを設け,それによって処遇の幅を決めるものだ。このグレードに,ITSSのレベルを対応づけた。職務グレードのSはスキル・レベルの6または7,グレードAはレベル5,といった具合である。

 さらに同社は全社員のスキルをITSSの基準に沿って測定した。その結果を職務グレードと関連づけたところ,降格する社員が出てきた。これまでの業務実績や成果でグレードSと見なされる社員でも,レベル6に至らなかった場合は,グレードを下げられてしまうからだ。結局このベンダーは,総人件費の抑制に“成功”したという。

 ITSSで“被害者”の立場に置かれた例もある。別の中堅ベンダーは,あるスキル診断ツールを使い,全社員200人のスキルを測定した。元請けベンダーの要請によるものだ。元請けベンダーはその結果を,中堅ベンダーの下請けや派遣の料金を引き下げる材料に使った。

 上記の2例は,ITSSの“誤用例”とでもいうべきものだ。確かに,ITSSはスキルに応じてレベルを詳細に定義しているので,人材評価に使うこともできる。しかしITSS自体は,あくまで人材育成の指標として作られたものである。こうした本来の目的を理解せずに,「当社の人事制度にどう適用すればよいか」「ウチの会社の賃金体系と合わせるためにはどうしたらよいか」という方向にしか考えがいかないと,結果的に「ITSSは人を評価するための道具」という“ずれた”理解に陥ってしまう。

 なぜ,ITSSを人事制度や賃金体系に適用しようとする動きが見られるのか。大手ITベンダーの人材育成担当者は,その理由を以下のようにみる。

 「成果主義型の人事制度を導入する場合,評価の尺度をどう設定すればよいか。どうすればITエンジニアが納得のいく尺度になるか。この点に,どのベンダーも頭を悩ませていた。そんな折に登場したのがITSSだった。ITSSは経済産業省が作ったので,社員からの納得感を得やすい。さらに,経営陣が『成果主義を早期に導入せよ』とプレッシャーをかけたこともあり,人事担当者はこぞってITSSに飛びついた」

人材育成が目的であることを再度強調すべき

 こうした現状に対し,ITSSの策定・普及を主導する関係者はとまどいを隠しきれない。「政府は賃下げや値引きのための道具を作るために,わざわざ税金を投じたわけではない。あくまでも日本のIT人材を高度化するのが狙いだ。しかし,表だって『こんな使い方をしてはダメ』とも言いにくく,困っている」。ある政府関係者はこうつぶやく。

 ITSSの普及・活用促進団体である情報処理推進機構(IPA)ITスキル標準センターの長田康久センター長も,「これまでITSSの解釈や活用は,企業や個人に任せるというスタンスを採ってきた。しかしその結果,策定当初の狙いがきちんと伝わっていないようだ」とみる。

 「企業はもちろん個人にも,ITSSにもっと関心を持ってほしいと考えている。自分の所属する組織にとらわれず,スキルを磨いて独立独歩で活躍するIT人材が増えれば,きっと日本のIT業界は活性化する」。ITSSの策定元である経済産業省の久米孝 商務情報政策局情報処理振興課 課長補佐は,こう話す。だが,ITSSにネガティブなイメージがついてしまっては,個人に見放されてしまいかねない。

 政府関係者らの言い分はもっともかもしれないが,ITSSの“本当の狙い”をもっと徹底して説明してこなかった経済産業省やITスキル標準センターに,そもそもの責任があるとも言える。ITスキル標準センターの長田センター長は,「ITSSの目的は人材育成であり,個々のエンジニアの自律的なキャリア形成を促すものであるという基本を,あらためて訴える啓蒙策を打っていく」と宣言する。

 少なくとも,ITSSがスキルアップやキャリア形成に悩む企業や個人に福音をもたらしたのは明らかである。普及に向けた上昇気流に乗りつつ,決して弱くはない逆風に吹かれながら3年目を迎えたITSSの今後を見守っていきたい。

(高下 義弘=日経コンピュータ)