昨日(9月11日)公開した「新勘定系システム稼働の裏に“システム屋魂”(上)」の続きである。八千代銀行の小泉次郎副頭取は,極めて挑戦的な新勘定系システム構築プロジェクトを推進した。同副頭取がなぜこうした決断ができたのかを掘り起こす。

「不安はあった。しかし,夢を見よう」

 「オムレツが出てくるようにすればよい」の一言にしても,NECのオープン・サーバーに対する取り組み実績にしても,それをゴー・サインを出すための“論拠”とできるかどうかは,決断する者の考え方次第ではないだろうか。記者がもし小泉副頭取の立場にあったら,KDD(現KDDI)の統合KISSが開発途上であることを“待て”の“論拠”としたかもしれない。

 なぜ,小泉副頭取は,これらの情報からゴー・サインを出したのか。その点を小泉副頭取に改めてただすと,「不安を抑えて夢を見よう,と考えた。もちろん,不安はあった。オブジェクト指向やオープン・サーバーについて詳しい知識を持っている者がほかにいるわけでもなく,決断するのは孤独な作業だった・・・。しかし,システム屋にとって,夢を見ることは重要なこと。安全策を採ったシステムは,しぼむのも早く,長いライフサイクルを維持することもできない」との答えが返ってきた。

 小泉副頭取は,「夢を見れば痛い目に会うこともある。しかし,システム屋はロマンを持って仕事をしなければいけない。損得だけを考えて『こうすれば固い』などとしか考えない者は,システム屋を辞めた方がよい。情報システムは,まだまだ進歩する過程にあるのだから」とまで言い切る。

 ちなみに小泉副頭取は,新勘定系システム稼働初日に起きた障害の責任を取って,減俸処分を受けている。それだけにこの言葉には重みがある。

 小泉副頭取がこのような攻めの考え方を持つようになったのは,「そういう性格だから」(小泉副頭取)という面が少なからずある。若いときから「ルーチンの仕事をこなすだけではつまらない」(同)と考えていた小泉副頭取は,ITの知識を生かして,情報システム開発に関する顧客企業の相談に乗ったりもしていた。

 「一時期ではあるが,本来の仕事が終わった後にお客様の元に通い,アドバイスをした。ITベンダーの説明は専門的過ぎて,お客様には理解できない。一方で,ばら色の話ばかりをする。そういうときに,『実際にできるのは,こんな程度ですよ』『データ入力には,こんなに手間がかかるんですよ』『コストも,これだけかかります』という話をした」(小泉副頭取)。ITベンダーの説明を顧客と一緒に聞いて,説明内容を問いただしたこともあったという。

 当時はオフコンが市場に登場し始めた矢先で,「お客様が社運をかけてこれを導入するような時代だった。このため,アドバイスが重宝がられた」(小泉副頭取)。感謝した顧客からは,いまだに結婚式に招かれたり,周年記念行事などに招待されたりするという。

成功体験が攻めの姿勢を支える

 ただし小泉副頭取との取材の中で記者は,性格以上に,40年間にわたるシステム屋としての生活の中で積み上げてきた成功体験が自信となり攻めの姿勢を支えているとの印象を持った。

 成功体験の最たるものは,1977年に第2次オンライン・システムで「軒名寄せ」を実現させたことだ。軒名寄せを実現できれば,おじいさんの年金口座の獲得と,孫の学資ローンの売り込みを,営業担当者が一度の訪問でこなすことができるようになる。営業の効率を上げるためにも,顧客サービスを向上させるためにも,強い武器になる仕組みだ。

 しかし当時,軒名寄せをして,バッチ処理はもちろん,オンライン処理でも,家族単位の元帳情報を照会できるようにすることは,メインフレームのOSまで入れ替えなければできない大仕事だった。しかも,この新OSを利用する金融機関は,国内にはまだない状態。八千代銀行は新OSのバグと格闘しながら,なんとか軒名寄せを実現させた。

 「バグの修正作業が一段落するころには,もう終電は終わっている。銀行の中に用意した臭いベッドに寝泊まりしながら取り組んだ。今の人はぜいたくだから,ビジネス・ホテルなどを利用しているが,当時はそんなことは許されなかった。着替えも女房に持ってきてもらったものだ。コンビニなどはなかったから・・・」(小泉副頭取)。

 この苦労と成功が自信につながった。

 システムを利用する現場担当者からの感謝の声も,小泉副頭取の自信を支える太い柱になった。「融資の返済を,顧客の口座から自動的に振り替えられるようにしたときは,営業店の担当者から『残業が減ったよ。楽になった』と非常に喜ばれた。それまでは,手書きで作業しなければならなかったからだ」(小泉副頭取)。預金者の口座に利息を振り込む「利盛り」のシステム化も非常に好評だった。システム化することで利用者は,徹夜に近い作業から解放されることになった。

 「自分が工夫すれば,それまで10人必要だった作業が1人でできるようになる」。システム開発作業のそんな点に魅力を感じながら,仕事に取り組んだという。

 こうした成功体験の積み重ねが,強気の決断をできる,よい意味での“楽観主義”を小泉副頭取の思考法の中に埋め込んだと言えないだろうか。

融資オンラインの開発では体重が10kgも減る

 こうして書いてくると,小泉副頭取の足跡は順風満帆だったように見える。しかし,もちろん現実はそうではなかった。これらの成功体験を築き上げる過程では,健康との戦いもあった。

 例えば,1972年に稼働開始する融資オンライン・システム開発に取り組んでいたときのこと。小泉副頭取は,少ないメモリーをどうすれば有効に使えるか,悩み抜いていた。積み上がるストレスが原因で夜は眠れない。加えて,極度の食欲不振のため体重が10kg以上も減ったという。

 小泉副頭取は「これで寿命が縮まったらたまらん」と,タバコを止めた。さらに「帰宅時,ある駅を越えたら,もう仕事のことは考えないようにする」(小泉副頭取)と自分なりのルールを作り,気分転換を図った。「そうでもしないと,自律神経失調症になってしまうからね」(同)。

 しかし,ストレスの影響は,これだけにとどまらなかった。小泉副頭取の目を狙い,中心性脈絡網膜炎という病気をもたらした。これは,目の裏にある網膜に,水がたまる病気。「まあ,放っておけば,治るもの」。小泉副頭取は軽く語るが,いまだに「方眼紙のような細かい線のある紙を見ると,線がゆがんで見える」という。治った後の網膜は,ちょうど怪我をした後に皮が厚くなるのと同じように滑らかさを失った状態になるからだ。

老兵のロマン

 「私は,もう老兵。ゆえに,私にとっては最後となるこのシステム開発に,これまでの経験のすべてを注ぎ込んだ。1つのロマンだった」。小泉副頭取は6月10日,新勘定系システムが安定稼働に入ったのを機に開いた記者会見の席上で,こう語った。

 本誌の単独取材に対しては,「今回のシステム開発は,私にとっては最後のご奉公。去るにあたって,当行にとっても,IT業界にとっても,何か大きなものを残せればと考えた。仮に何か問題が起こっても,私が責任を取ればよいのだから」とも語っている。

 いずれの言葉も,記者には,万感の想いを込めた言葉に聞こえた。

 “老兵”が“最後のご奉公”に付けた点は80点。「稼働当初にケアレス・ミスで障害が発生するなど,減点項目もあった。しかし,業務全体としては,きちんと動いている」。“無謀”な意思決定の結末は,もちろん合格だった。

(森 永輔=BizTech副編集長)