育児休業を取ったイクメンSEのインタビューは今回で最終回となる。登場いただくのは富士通 クラウド事業本部 マネージドセキュリティ事業部の菅野憲昭(すがの・のりあき)さんだ。セキュリティ関連サービスの開発・運用部署でプロジェクトマネージャー(PM)として働く菅野さんは、2014年7月から1カ月間の育休を取得して、双子の育児に専念した。過去に常駐先で男性顧客が育休を取得しているのに触発され、周囲に前例のない中で自らも踏み切った格好だ。育休後はPMとして「明日できることは明日やる」仕事ぶりをさらに徹底、効率の良い働き方を進めて育児時間を作っている。

(聞き手は井上 英明=日経コンピュータ


現在のお仕事ぶりを教えてください。

 セキュリティ関連サービスを開発・運用する部署に所属しています。今はPMとして(外部からのサイバー攻撃による侵入や内部の犯行を監視するセキュリティ監視センターである)「SOC(セキュリティ・オペレーション・センター)」を顧客ごとに構築する仕事に携わっています。2014年12月に始まった業務で2015年5月から合流し、今月(7月)に第一号を無事に稼働させました。

 私はプロジェクトマネジメントとセキュリティの資格を持っています。SOC構築はセキュリティ対策製品を導入するだけならそれほど難しくないのですが、何をどこまで監視対象とするか、何をインシデント(セキュリティ上の事故)とするか、どう分析するのか、インシデントが見つかったら誰にどう伝えるかといった部分まで踏み込むので、やることやステークホルダーが多く、プロジェクトマネジメントのスキルがとても求められます。

 入社は1996年です。昔からプログラミングが好きで大学では情報処理を学び、学校推薦で入社しました。「事務所の中に閉じこもっているのは嫌だな」と思い、お客様に接することのできる部署を希望しました。2000年ぐらいまではネットワークSEとしてWANを構築したりネットワーク監視センターを立ち上げたりといった仕事に携わりました。その後、ネットワーク事業を拡大させるためセキュリティ対策部隊が発足して異動しました。そこで2006年までインフラにセキュリティ対策を施すチームのリーダーを務めた後、社内公募に応募して官公庁に常駐する業務SE・PMに転身しました。途中、顧客支援で3年間ほど米国で仕事をして帰国、2014年4月に古巣のセキュリティ部署に希望して戻ってきました。

 楽観的な性格ですが、PMとしては粘り強く、うるさく、細かいと我ながら思っています。家庭ではのんびりしていて妻の方がずっと細かいですけどね。

育休はいつ取られたのですか。

 2014年7月17日から1カ月間の育児休職を取りました。4月に異動した直後だったので取りやすいタイミングでしたね。異動前に今の事業部長に挨拶したとき、「すいません、生まれたら1カ月の育休を取ります」と申告したところ「仕事の調整が付けばいいんじゃない」と回答いただきました。言い出しやすかったのは今の部署は入社からずっといたところだったので、上司を含めてよく知っているメンバーが多かったからです。「菅野が言い出したらわがままだから聞くしかないだろ。言い出したら聞かないからな」という感じで育休を認めてもらった気がします。

 育休を取った理由は双子が生まれたからです。2014年の2月か3月には最初の子どもが双子であることが分かっていたので「これは大変じゃないかな、私も助けなければ」と決めていました。取るタイミングや期間は未定でしたが妻にもそう話しました。実は私も双子なんですよ。育休中も今も「双子を育てるのはこんなに大変なのか」と実感するばかりです。そのたびに両親がしてきたであろう苦労を実感し、感謝の気持ちになります。当時はオイルショック後でもあり、今より便利じゃない部分もたくさんあったはずですから。

双子の赤ちゃんを見かけると昔は「かわいいな」としか思いませんでしたが、育児を経験すると「これは大変だ」という尊敬の念の方が強くなります。さて、育休期間を1カ月と決めた理由はなんですか。

 制度的な理由です。当社は1カ月(20営業日)以内であれば、育児を理由に積み立て休暇という有給を使えます。子どもができたと分かった時、うちの会社でも(制度が)あるのかなと調べました。妻は専業主婦なので、無給は厳しいかなと思い、有給が使える範囲にしました。官公庁に常駐していたころ、3カ月ぐらいドバっと育休を取る男性の方が多く、「男性でも取るんだな、取っていいんだな」という印象を持っていました。そこは自分の育休を後押ししてくれましたね。今の会社では(男性SEの育休取得を)ほとんど聞きません。同僚で他社に転職した人や大学の友達などに聞いてもいないですね。

 2014年4月に異動してからは、7〜9月あたりで休むことが見えていたので、自分で抱え込まず、旗振りだけに徹するように意識して仕事を進めました。8年間の官公庁への常駐時代、自分がいなくなっても仕事が回るように意識して仕事を進めていましたが、この経験が役立ちましたね。このスタイルはやる人とやらない人が極端に分かれます。今の事業部は1人にたくさんの仕事が振られて、外から見て今何をやっているのかあまりよく分からないことがあります。官公庁常駐時代は「これはこの人に任せています」ということがはっきりしていて、例えその人が倒れても、結構SEは倒れますので、上司が「ああ、この仕事ね、分かったよ」と縮退運転できるような仕事でした。代替可能なようにメンバーを育成していくのが仕事だと思っています。