コミュニケーション・ロボット「Robovie-IV」が,ATR知能ロボティクス研究所長の萩田紀博氏と会話している様子
コミュニケーション・ロボット「Robovie-IV」が,ATR知能ロボティクス研究所長の萩田紀博氏と会話している様子
[画像のクリックで拡大表示]
大阪大学大学院工学研究科 石黒研究室が開発したアンドロイドのRepliee Q2。一瞬見ただけではロボットと判別できないほど人間らしい外観をしている
大阪大学大学院工学研究科 石黒研究室が開発したアンドロイドのRepliee Q2。一瞬見ただけではロボットと判別できないほど人間らしい外観をしている
[画像のクリックで拡大表示]

 まずは,コミュニケーション・ロボットの「Robovie(ロボビー)」と研究者の萩田さんの会話を聞いていただこう。

ロボビー:「萩田さん,何飲んでるの?」
萩田さん:「お水だよ」
ロボビー:「お水っておしいしいの?」
萩田さん:「おいしいよ,とっても」
ロボビー:「ロボビーも飲んでみたいな」
萩田さん:「だめだよ,そんなの飲んだらさびちゃうよ」
ロボビー:「雨,降ってるね」
萩田さん:「降ってないよ。今日は,秋晴れ」
ロボビー:「あれ,間違えちゃった!
・・・おなか,減らない?」
萩田さん:「減ったよ,減った」
ロボビー:「お菓子,食べよう」
萩田さん:「うん,食べよう,食べよう」
ロボビー:「ロボビーいないと淋しい?」
萩田さん:「淋しいよ,とっても淋しい」

 結構,会話になっているではないか。ああ言えば,こう返す。間(ま)の取り方もいい。頼りなげで可憐な声も,年輩者にはこたえられないだろう。

 実はこれ,10月31日に都内で開催された第4回NTTコア技術シンポジウム「人とロボットがつながる次世代電脳空間」において,ATR知能ロボティクス研究所長の萩田紀博氏が披露した「コミュニケーション・ロボットRobovie-IVとの会話」のビデオの一幕である。

 Robovie-IVは,現在ATRが開発中のロボットで,2003年10月に発売したRobovieシリーズの最新機種だ。ユーザーは無線ICタグを付けてロボットの認証を受け,30分ほど自分の好みやプロフィールなどについて話しをすれば,その履歴に基づいて冒頭のような初歩的な会話ができるようになる。

 実際には,ロボットが話題を切り出し,数回のやりとりをする小対話を繰り返している。話題は,約70種類の「会話モジュール」の中から状況に応じてランダムに選んでおり,バラエティーのある会話が楽しめる。

 ATRでは2015年までに家庭用コミュニケーション・ロボットを普及させたいとする。筆者の定年には間に合いそうなので,ボケ防止にぜひ1台購入したいと考えている。

ロボットとどう付き合うか

 ロボットを用途別に見ると,大きく3つのカテゴリーに分けられる。1つ目は工場の製造ラインなどに設置され,人間にとって困難な作業を代替するタスク・ロボット,2つ目は人間が何かを行うときに助けてくれるナビゲーション・ロボット,そして3つ目が人間と会話し,楽しませてくれるコミュニケーション・ロボットである。

 ユビキタス社会の訪れとともに,ITと人間とのインタフェースとしてコミュニケーション・ロボットの開発が加速している。スピーシーズは10月に家庭向けの人型ロボット「MI・RAI-RT」を発売した。インターネット上のサーバーからコンテンツや番組をMI・RAI-RTにダウンロードすれば,ニュースを読み上げたり,音楽に合わせて踊ったりする。NECとNTTは,携帯メールで操作できる子守りロボットの実用化に取り組んでいる。

 冒頭に紹介したRobovie-IVは,さらに一歩進んで,認識処理,知識処理などの技術を使い,自律的に会話できることを目指している。人間の日常生活に溶け込み,情報を取り出すツールとしてだけでなく,会話する楽しみや「癒し」を提供してくれるロボットが間もなく登場しそうだ。

 わが家にロボットがやってくる日はそう遠くない――と言われると,便利になるだろうと期待する半面,単なる機械ではない「存在」が家に落ち着くことの「不安」が少なからず生じる。

 先に紹介したシンポジウムでも「人とロボットのつながり」をテーマに,研究者やSFシナリオ作家などが一堂に会して様々な議論が交された。人間にとって一番安心できるコミュニケーション・ロボットの外観とは?ロボットはどこまで人間に近づくべきか?ロボットとどう付き合っていけばよいのか?

 大阪大学大学院工学研究科 知能ロボット学研究室の石黒浩教授は,人間そっくりの外観のアンドロイドを製作し,工学的,認知科学的見地から研究に取り組んでいる。会話能力を高める人工知能や,人間らしい外観や動きを開発する一方,人間の認知メカニズムを解析し,人間らしい知覚や振る舞いとは何かを探っている。

 「人間の存在や権威などをロボットに実装できるか,そもそも人間の存在とは何か。ロボットの研究を進めていくと,次第に根元的,哲学的問題に行き着く」と石黒教授は話す。

「意思ある存在」と向き合う

 「人とロボットの関係」を探る手がかりは,SFの中に少なからず見出すことができる。SFの世界では常に,ロボットは人間社会の未来図に欠かせない存在だったからだ。1930年代にはすでに機械人間をテーマにした小説が人気を博していた。80年代以降は映像技術の進歩もあり,ブレードランナー,ターミネーター,マトリックスといったSF映画が次々にヒットした。1950年にアイザック・アシモフが書いた「I,Robot(われはロボット)」が50年の時を経て2004年に映画化され,話題を呼んだことも記憶に新しい。

 SFに伝統的に流れているテーマは,ロボットを作る人間の傲慢さ,愚かさへの警告である。最終的に人間は自らが作りだした人造物からの報いを受けることになる。そうした中,スピルバーグ監督による2001年公開の映画「A.I.」は,「愛」を使命とする少年ロボットが人間の家庭に送られるという,現代社会に比較的近い設定になっている。

 この作品ほど,評価が賛否両論,真っ二つに分かれているのも珍しい。不評の多くは,テーマの難解さを理由に挙げている。次々と変化する背景とストーリー展開に翻弄され,結局この映画は何を言いたいのか見えてこないというのである。そこで改めてこの作品を眺めていると,筆者はロボットとの関わりを考える上で一つの示唆を得ることができた。

 人間がロボットを無造作に作っては破壊する愚行を繰り返し,最後には滅亡する。ただ少年ロボットだけが生き残り,愛を貫く。これが「A.I.」の大まかな筋書きで,それ自体に目新しさはない。しかし,スピルバーグ監督はヒューマニズムの作家であり,機械文明の破局という図式を超えたメッセージ――「存在とは何か」という人間にとっての永遠のテーマが読みとれる。

 主人公の少年ロボットは2000年の時を超え「人間の子供になって,母親に会いたい」という願いを成就させ,永遠の眠りにつく。ロボットが人間になったという解釈もできるが,そこに本質があるのではない。母親を愛するという強い「意思」だけが時空を超え,その願いは超越者(神,映画の中では異星人)によって叶えられた,と見るべきだろう。

 ここでは,人間であるとか,ロボットであるとかいう個体としての区別はさして問題ではない。体が有機体で出来ていようが,金属やセラミックであろうが構わないのである。そこに見出せるのは,意思あるものすべてを「存在」として認め,尊重すべきという意図ではないか。中でも愛は最も崇高な意思であり,必ず最後には神によって祝福される――監督のヒューマニズムの投影と見ることができる。

もはやSFではない

 現実問題を考える上ではここまで唯心論に偏る必要はなく,ロボットが意思と呼べるほどに高度な知能を持つのはかなり先のことだろう。だが,ロボットと共存する社会はもはやSFではなく,その「存在」を受け入れる準備をすべきだろうと筆者は考える。

 映画「A.I.」の冒頭シーン,少年ロボットの開発会議において,くしくも女性研究者がこう問いかけている。「人間に愛を与えるロボットを作るということは,それを使う人間にも責任と義務が生じるのではないか」。また,SFシナリオ作家の櫻井圭記氏はこう提言する。「ロボットがどれだけ人間に近づけるのかという問いは本末転倒だ。人間がどれだけロボットに近づけるのかを問うべきである」。

 人間ひとり一人が自己という「存在」を確立し,他者という「存在」を尊重することによって,平和共存の社会が築かれる。逆に自己を見失い,他者に存在を依存するような関係は不幸でしかない。来るべき人間とロボットとの社会においても,本質は同じと理解すべきだろう。