「来年度予算の売り上げや利益は,確実に達成できそうな数字にしておこう。意欲的な目標を掲げたとしても,うまくいかなかったら責任を取らされ,結局は自分が損をすることになる。重要なのは,意欲的でない目標をいかに意欲的に見せるかだ」---。

 毎年今ぐらいの時期(11~12月)になると,日本の多くの会社でマネジャー(管理職)クラス以上の社員は,翌年4月から始まる次年度の予算編成作業のため忙しくなる。そんなとき,「自分の評価が下がらないようにするにはどうしたらいいのか」という問いが,マネジャーの頭をよぎるのは,ごく当然のことだろう。

 成果型報酬制度の浸透によって,予算の弊害が今まで以上に目立つようになってきた。予算をめぐる社内での非生産的なゲーミング(駆け引き)が活性化してきたのだ。

企業は挑戦する風土を失いかねない

 「予算管理は即刻やめるべきだ。変化の激しい現代の競争環境にそぐわない。経営者にもマネジャーにもメリットはほとんどない」---。11月上旬,英国ハンプシャーにいるジェレミー・ホープ氏に電話したところ,力強くこう警告された。

 ホープ氏は,予算管理の弊害と対処法を研究する団体「BBRT(Beyond Budgeting Round Table)」の代表者の1人。98年に英国で設立されたBBRTには,英蘭ユニ・リーバ,独ドイツ銀行,米アメリカン・エクスプレスなど欧米企業約50社が参加する。

 従来の年度予算管理のやり方に疑問や不満を抱くのは,日本企業だけではない。欧米企業だって同じ問題で悩んでいる。BBRTには最近,日本たばこ産業(JT)が加わった。

 ホープ氏と親交が深く,予算管理に詳しい野村総合研究所(NRI)の森沢徹・上級コンサルタントによると,「日本の上場企業は平均3~4カ月を予算管理に費やす。半年かかる企業すらある」。

 いまや上場企業の大半にERP(統合基幹業務)システムが導入され,決算処理に費やす日数は大幅に削減された。しかし,予算編成の短期化までは実現できていない企業が多い。ERPシステムは予算編成作業の短縮にも貢献するはずだが,運用面の課題が放置されたままだからだ。

 そもそも予算編成に何カ月もかかるのは,経営陣,事業部長,部課長の間で何度も調整作業を繰り返すため。しかも,調整とは名ばかりのゲーミングが起こり,余計に時間がかかる
。マネジャーの報酬や人事考課と,予算の達成度を強く連動させすぎると,「マネジャーは最小のリスクで,最大のボーナスを得ようと画策する」(ホープ氏)。

 現在,多くの業界では市場環境の変化が激しく,先行きは不透明だ。このため,多大な時間と人手を費やして予算を編成しても,早ければ予算実行年度の第1四半期中に予算数値が形がい化しかねない。前提条件の崩れた予算数値の達成度合いで評価されては,マネジャーはたまったものではない。

 ゲーミングが常態化すると,企業は挑戦する風土を失う。長期的に見ると,これこそが予算管理の最大の弊害だ。競争環境の厳しいいま,新しい価値創造に挑戦し続けなければ,企業はいつ足下をすくわれてもおかしくはない。

欧米企業が注目する「脱予算モデル」

 ホープ氏は「Beyond Budgeting Model(BBM,脱予算モデル)」を提唱する。これは,固定業績契約と連動した予算をやめて,マネジャーへの権限委譲度を高めた経営モデルだ。変化適応型分権組織への転換を狙う。

 固定業績契約は,予算数値の達成度をマネジャーの業績評価の中心に据えた契約形態を指す。つまり,年度開始前に策定した売り上げ予算や利益率予算などの数字を評価指標とする。一方BBMでは「相対的改善契約」を使う。社内外の競合の業績結果との相対比較で,マネジャーを評価する。

 ホープ氏はBBMのベストプラクティスの一つとして,スウェーデンの銀行,ハンデルスバンケンを挙げる。北欧4カ国を中心に500以上の支店を持つ同行は,10の地域統括部門の配下に複数の支店をグルーピングして置く。そして,1グループのなかで,収益対費用率,行員1人当たり利益,利益総額の3つの指標で支店同士を競わせる。地域統括部門同士はROE(株主資本利益率)と収益対費用率で競う。経営陣はROEで他行に勝つことを目指す。ランキングは毎月公表され,上位でいることが人事考課に反映される。

 同行では支店長への権限委譲度が高い。支店で扱う金融商品の品目や価格,戦略,スタッフ総数や給与まで自由に決められる。これだけ裁量権が与えられているため,支店長は業務にやりがいを覚え,顧客の要求に素早く対応できる。

 相対的改善契約で使うベンチマークは,競合他社の売り上げや利益率だったり,市場シェアでもいい。ただし,「比較の前提条件を細かく決める必要はない。日本企業はギリギリとやりがちだが,欧米企業はその辺はアバウトだ」(財務や経営管理に詳しいアクセンチュアの伊佐治光男エグゼクティブ・パートナー)。

 予算を廃止すれば,予算管理の弊害は一掃できる。しかし,次年度予算の編成を完全にやめてしまうのはリスクが大きい。ホープ氏の著書の日本語版『脱予算経営』(生産性出版)を監訳した,早稲田大学の清水孝教授はこう指摘する。「予算を完全になくすと,全社の資源計画がうまくいかなくなる。売り上げや費用の目安としての予算は残すべきだろう」。

 ホープ氏は,「BBMを実現するポイントは,経営陣がどれだけマネジャーを信頼できるかにかかっている」という。いまの予算管理の目的の一つは,経営陣がマネジャーの働きを監視し,不満があれば指示を出すことにある。そんな役割を担う予算を放棄するためには,経営陣がマネジャーの挑戦心や業務能力を信じることが大前提となる。

 あるいは,「経営陣が予算を使ってマネジャーを管理しなくても,マネジャーが挑戦的な目標を自律的に掲げ,目標達成に向けて日々邁進する風土を作ることがポイントだ」と言ってもいい。

 11月24日発売の日経情報ストラテジー2006年1月号に,予算管理をテーマとした特集記事を掲載した。予算管理のさまざまな弊害に対処するために,独自の工夫を凝らす国内外の先進企業9社の取り組みを紹介している。飽くなき業務改善の追求で有名なトヨタ自動車の事例も含む。さらに,BBMの詳細はもちろん,NRIの森沢上級コンサルタントが提唱する「トラスト経営モデル」にも言及している。

杉山 泰一=日経情報ストラテジー