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 システム開発でオフショアを活用する流れは止まらない。そしてオフショアは開発だけでなく,運用やコールセンターなど他の業務にも広がりを見せている。日本企業は失敗を経験しつつも,ノウハウを蓄積してきた。その一方で,いまだオフショアリングについて不安視する声が多いことも確かだ。

 ガートナージャパンでオフショアリングの動向について調査している足立祐子ITマネジメント主席アナリストに,現状と今後の見通しについて聞いた。

欧米の動向が明に暗に影響

 オフショアと聞いて思い浮かぶのは中国とインドだが,この先数年間のスパンで見ると,ベトナムやブラジルも日本にとって有力なオフショアリング先になり得るという(関連記事)。ベトナムは地域的に近いこと,ブラジルは日系人が多くいることから,日本と文化的な親和性が高い。また両国の有力ITベンダーは日本に現地法人や営業拠点の設置を開始しており,環境が整ってきたと表現していいだろう(関連記事)。

 ただブラジルは距離や時差が障壁となりかねないため,単にプログラミングやコーディングをオフショアするだけではメリットを十分に享受できない可能性がある。足立氏は,「セキュリティや金融など,ブラジルのベンダーが得意とする領域を任せるとメリットを得られやすい」とアドバイスする。

 ブラジルは以前から犯罪発生率が高かったことを背景に,セキュリティ分野のテクノロジが進んでいる。また,深刻なインフレの時代を経験したことから,「金融機関のシステムは変更に柔軟に対応できる設計になっている」(足立氏)という。こうした強みを武器に,ブラジルのベンダーはポリテックなど2社が最近日本に営業所を設立し,活動を始めている。同社は米FBIからも仕事を受注しているという。

 ベトナムやブラジルが有力な候補として浮上してきた理由の一つには,インドや中国で発生している“人手不足”がある。いまインドのITベンダーは,世界各地から寄せられる開発案件に応えるために自国のエンジニアだけでは足りず,人材を中国にも求めようとしているという。その規模は数万人単位。「中国は50万人から60万人のITエンジニアがいると言われている。確かにコーディングを担当するプログラマの数は問題ないが,システム全体や業務プロセスに対する理解があるエンジニアの数はそれでも限られている」(足立氏)。

 高いスキルを持った中国のエンジニアはインドの企業が請け負った欧米系の仕事に流れがちな傾向がある。このため,日本企業への供給が追いつかなくなる可能性もある。足立氏は,「日本企業はそうしたグローバルな動向を踏まえた上で,オフショアリングする仕事の領域や,自社内の体制を検討するべき」とコメントする。

オフショアリングには標準化が必須

 オフショアリングのメリットは一般的に,設計,コーディング,単体テストなど各工程担当者の単価差にある。例えば日本の大手ベンダーにおけるエンジニアの人月単価を1とした場合,インドの現地エンジニアは0.396,中国・北京の現地エンジニアは0.320という(いずれのデータもガートナーが今年2月に調査した結果から)。

 しかし,このメリットを享受するには,まず自社内の開発プロセスを標準化し,言語や文化の違いを乗り越えられるようにすることが欠かせない。標準化されていないと生産性が低下し,この単価差がかき消されてしまう。それだけでなく,「かえって納期遅れやコスト高を招く例も少なくない」(足立氏)。

 業務や仕事の用語を定義したり,仕事の共通ルールや書類のテンプレートを作成することで生産性の低下は防げる。「仕様書の翻訳や,指示内容の再確認の手間は大きくなりがち。この費用や時間は過小評価するべきではない」と足立氏は注意を促す。

 仕事を受注する側であるインドや中国のITベンダーも標準化に取り組んでいるが,インドと中国では標準化のアプローチが異なる。一般的にインドのベンダーはCMMI(能力成熟度モデル統合)ベースの標準化に取り組んでいる。一方,中国のベンダーは企業固有のアプローチで標準化に取り組むことが多いという。足立氏は「こうした各国の標準化の動向を踏まえて,自社の標準化も考えていくとオフショアリングはスムーズに進む」とコメントする。

立ち上がる運用のオフショアリング

 これまでオフショアリングはコーディングや単体テストが多かったが,「最近は,“運用系”の市場も立ち上がりつつある」(足立氏)。時差を利用した運用監視のニーズや,システム開発を委託した経緯から運用も依頼したいといった声があることから,潜在的な需要があるという。

 ただ,運用業務は開発や単体テスト以上に人員同士の機微な連携が必要になる。「まずは,サーバーやネットワークなど,文化的な差異に影響を受けにくい,基盤システムの運用監視業務からオフショアリングが進んでいくだろう」(足立氏)。