東日本大震災が発生したとき新幹線に乗車していた富士通の野口直昭は、停まった新幹線の座席でノートパソコンを開き、富士通に何ができるか企画書を書き始めた。同社の生川慎二も3月12日の朝刊を見て、今回の地震を「ただごとではないな」と思い「自分に何ができるか」と考え、提案書を書き始める。翌13日日曜にその提案書を、役員にメールで送った。そして、いよいよプロジェクトが始動する。=文中敬称略

【前回より続く】

3月13日(日) アポなしで霞が関へ

 日曜にまたしても出社していた野口は、企画書を見た幹部社員に「このまま霞が関へ持って行け」と言われた。政府の災害対策本部へ、手伝いを申し出ろというわけだ。野口はカジュアルな服装のまま、タクシーで総務省に乗り付ける。アポなしの訪問を受けた職員に真っ先に言われた。

「富士通さん、何かビジネスを持ってきたの?」

 地域新ビジネス推進室と書かれた野口の名刺を見ての言葉だった。ただし、野口の提案には、その通りだと頷うなずいてくれる。

 そのとき、国にはそこまでをカバーする余裕がなかった。

「富士通さんの熱意と迅速さに感謝します」

 そう言われて霞が関を後にする。国の災害対策本部へ最初にやってきた民間企業は、自分たちのようだった。

3月14日(月) プロジェクト始動

 14日の月曜、前日に野口からメールを受けていた生川が出社し、役員に相談をすると、「予算は何とかするので、すぐにやろう」と即決された。

「このときには僕は、このプロジェクトは億単位で経費がかかると思っていましたから、それが即決されるのが、さすが本社だなと思いました」

 生川は、2008年に富士通に出向する前は、富士通中部システムズ(当時)に勤務していた。

 野口との出会いは、その年に開かれた富士通グループ向け発表会である「富士通フォーラム」。春に発生していた新型インフルエンザの対策にクラウドが有効だとする生川の発表を見て、野口が声をかけた。

 そのとき野口は、生川と自分とは「同じ時間軸を持っている」と感じたという。

「何か言うと、その場で結論が出る。じゃあそれでやりましょうとなる。『また今度』『次回に』とはなりません。その点で、馬が合います」

 以来、新型インフルエンザ、2010年の口蹄疫などで現場を共にしている。役割分担は、「野口さんは、リレーで言えば第一走者。まず現場へ突破しに行くんで、僕はその間はだいたい資金繰りを担当しています」と生川。