マグニチュード9.0、最大震度7。観測史上最大級の大地震は、その揺れだけでなく、大津波、原発事故などを引き起こし、甚大な被害をもたらした。2011年3月11日14時46分の地震発生直後から「この震災で自分たちにできることは何か」という当事者意識に基づいて行動を起こしたのが、富士通の野口直昭(44歳)と生川慎二(42歳)だ。

 いったい何が自分たちにできるのか。それは、被災地に行かない限り、わからない。誰よりも速く現地に赴き、行動しながら考えた。3月15日、野口と生川だけの災害支援特別チームが結成された。以後、お互いの得意分野を生かして復旧・復興に携わっている。地震が発生したときから二人が何を考え、どう行動したのか、これから5回に分けてお伝えする。=文中敬称略


3月11日(金) 新幹線の車内

 2011年3月11日。その日のうちから、被災地を支援する仕組み作りが始動した。

 地震が起きたその瞬間、野口直昭は新幹線で京都へ向かっているところだった。急ブレーキに「何事か」とは思ったが、よくあることだとも思った。インターネットでいち早く情報を得た隣の乗客が、大きな地震が起きたことを教えてくれた。

 最初にしたことは、千葉に住む家族の安否確認だ。無事を知った途端、野口に「スイッチが入った」。携帯電話とスマートフォンで帰りの足を押さえにかかる。伊丹空港発、関西空港発のJAL(日本航空)、ANA(全日本空輸)両方の最終便と、翌朝最初の便を確保した。そして停まったままの新幹線の座席でノートパソコンを開き、企画書を書き始めた。

 何か起きたら、まずは企画書を書く。これは、2009年に新型インフルエンザの患者が成田空港で最初に確認されたときと、同じ行動だ。自治体向けの仕事が長い野口は、「この震災で富士通にできること」をテーマに、A4判で数枚に及ぶ企画書を作り始めた。ノートパソコンの中には、2010年9月の奄美大島の豪雨の際に作った「災害とクラウド」をテーマにした資料があった。それをもとに作業を進める。

 結局、その日は飛行機が飛ばなかったため、関西空港近くのホテルに場所を移して企画書作りを続け、仕上げると同時に上司へメールで送った。