2008年の「今年の漢字」は「変」だそうだが,製造業,とりわけ自動車産業にとっては,「変曲点」と言ってもよい年となった。まず,年明け早々の1月10日には,インドの自動車メーカーTata Motors社が,30万円を切る超低価格車「nano」を発表して,自動車業界に衝撃を与えた(その際に書いたコラム)。スズキがインドで生産,販売している現状の最低価格車「マルチ800」(軽自動車「アルト」に800ccエンジンを積んだ車種)の約半分の価格だった。

 日本の自動車関係者の多くの見方は,30万円以下でまともなクルマがつくれるわけがない,というものだった。実は筆者もそう思っていた。しかし,蓋を開けてみると,存外にちゃんとしたクルマなのであった。筆者は,発表会での第一印象を「ボディのサイズ感や質感は,ドイツDaimler社の『スマート』に近い」と書いた(Tech-On!の関連記事)。

徹底的なVE?

 なぜ,30万円以下の価格でクルマがつくれるのか---。工場予定地の住民の反対で発売が遅れていることもあって(注:同社は生産工場をGujaratに移転し、2008年度第4四半期に発売すると発表している),まだその「秘訣」の全貌は明らかになっていないが,徹底的に機能の絞り込み,設計の簡素化が行われていると見られている。その一方で,一定の質感を持たせて,粗悪品のイメージを避けている(Tech-On!の関連記事)。いわば,徹底したVE(バリュー・エンジニアリング)が行われているようなのである。

 ただ,nanoの価格設定には,そうした技術上の問題とは別の意図を感じるのも事実である。多くの報道陣が詰め掛けてまるでお祭り騒ぎのような発表会場で,会長兼CEOのRatan Tata氏は自ら,写真付きでインドの一般的な国民の移動手段が自転車,バイク,3輪車と変遷してきたことを説明するとともに,バイクに家族4人が乗っている写真を紹介し,こうした危険な状況を解消するために開発したのだ,と語った。そして,同氏の「パフォーマンス」は4年前から目標としていた1ラーク(10万ルピー)を達成したと言及するところでクライマックスを迎え,「約束は約束だ」(That's because promise is promise.)と語ったときには,会場に津波のような大きなどよめきと喝采が起こった。

はじめに1ラークありき

 なにがなんでも「1ラーク」を達成するという執念を感じるスピーチだった。とはいえ一方で,コストダウンのための王道や魔法があるわけではないとも思うのである。実際,nanoの開発に当たっては,20社を超す外資系の部品メーカーが部品を供給している。エンジンECUを供給しているのは,ドイツBosch社であることが明らかになっており,日本メーカーとしてはデンソーの名前も挙がっている。組み立てラインのレイアウト設計や全体のプロジェクト進行を担当したのは,エーイーエス(本社横浜市)という日本のエンジニアリング会社である。確かに,Tata社は各サプライヤーと徹底的な低コスト設計を共同で行ったようだが,他の車種同様に,グローバルなレベルで部品を調達していることには変わりがない。

 このため,サプライヤーの情報などから部品コストはある程度見積もることは可能であり,部品原価だけで10万ルピーを超えるという試算もある(Tech-On!の関連記事)。加えて,原材料価格の高騰が追い討ちをかける。Tata社は,「経営を圧迫する価格設定ではない」と言っているが,少なくとも当面の儲けは度外視している可能性が高いのではないかと見られる。

 そんな「無理」をしてでも30万円を切る乗用車を市場投入しようとしているのは,前述したようにこれまで乗用車には手が届かずバイクに家族4人が乗っているような層にも買えるようにしたいという思いからであろう。インドは確かに,1991年の経済自由化以来,高い経済成長を続けており,自動車を買える層は増えてきているが,自動車に手が届く48万ルピー(126万円)以上の年収を得ている富裕層および「中の上」の層は,1700万世帯,8000万人に過ぎず,インド全体の人口からすればまだ僅かである。nanoが狙うのは,さらにその下の2500万世帯,1億人にのぼると見られる中間層(年収12万~48万ルピー=31万~126万円)である(Tech-On!の関連記事)。

 これに対して,インドに進出している日系メーカーには,そこまでの低所得者にまでクルマを提供しようという発想はないようだ。インド国民のうち,収入が増えて,より上級なクルマを買えるようになる層を狙っている。最低価格帯の「マルチ800」を供給しているスズキは,その上級バージョンをnanoと同時期に発表した(Tech-On!の関連記事)。スズキが「マルチ800」で開拓した小型市場は「Aセグメント」と呼ばれるが,Tataはその下,スズキはその上とAセグメントが二極分化してきたのである。ホンダは,さらに上級のCセグメント(「City=フィットアリア」)やDセグメント(「アコード」)を中心に展開している。

「上位志向」という面では同じ?

 ただ,こうしてみると,バイクや三輪車に乗っている顧客により「上位」の乗用車を提供しようとするTata社も,現在小型乗用車に乗っている顧客にそれよりも「上位」な乗用車を提供しようとする日本メーカーについても,経済成長による収入の増加に伴って,より「上位」な乗り物への乗り換えを提案しているいう構図という面では同じではないかとも思う。日本でも「いつかはクラウン」というキャッチコピーに象徴されるような上級指向や大型車指向があった。新興国でモータリゼーションが進む中での一つの段階なのであろう。しかし,そうした「上級指向」が今回の金融危機によって,「下位」,つまりより小型・より低価格なクルマへと潮目が変わってきているように見える。その流れは,すでに上位志向が成熟化した先進国では大きく,新興国では上位志向とせめぎ合いながらも確実に進んでいるようだ。

 「『トラック』に笑い,『トラック』に泣くビッグスリー」というコラムでは,そうした小型車・低価格車という「下位志向」の潮流にビッグスリーが乗り切れなかったという状況を書いた。日本メーカーが小型車に相対的に優位性を持っているのは,「上位化」や「大型化」の流れには乗っていたものの,まだ途中段階であったために潮目が変わった際に引き返すのが容易だったという面があるのかもしれない。