本連載では、第一部で中尾哲二郎と松下幸之助の二人三脚で歩んだ松下電器の技術・商品開発の歩みを、そして第二部では中尾の人物像や思考・行動特性について筆を進めてきた。最後の第三部では、座談会を通して中尾の実像やMOTの視点から幸之助・中尾の連携プレーに迫った。

 今回は本連載の締めくくりとして、不透明な現代を生き抜くためのヒントを中尾の生き方から探ってみたい。

中尾が目指したエジソンと島津源蔵

 この連載では中尾を技術者の理想像として分析してきたが、そもそも中尾はどんな技術者を理想としてきたのだろうか。

 彼が手本とし、目標とした技術者は2人いる。トーマス・エジソンと、島津製作所二代目当主・島津源蔵である。

 人の五感に直接訴えるモノを次々と発明したエジソンについては幸之助も高く評価しており、技術者の道標として中央研究所前にエジソン像を建てたほどだった(写真)。

写真●松下電器の中央研究所に建てられたエジソン像(写真中央)
写真●松下電器の中央研究所に建てられたエジソン像(写真中央)
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 中尾もエジソンの言葉を引用し、「一つのひらめきを得るには99%の努力が必要である」と寝食を忘れた努力の積み重ねの必要性を訴えていった。

 中央研究所の研究員“第一号”であった福田雅太郎・松下技研(後に松下電器本体に合併)元取締役によれば、中尾はしばしば米国のエジソン記念館の展示室の様子を解説しながら、「エジソンのように研究室にベッドを置こうか」と楽しげに語りかけたという。

 一方の島津については日本電池(現ジーエスユアサバッテリー)の創業者としても有名な人物である。GSの商標はゲンゾー・シマズの頭文字から取っている。

 島津は苦難の末、蓄電池用の「易反応性鉛粉製造法」を発明し、昭和5(1930)年には日本の十大発明家に選ばれた。柔らかい鉛から粉を生成するという難題を解決した秘訣を島津は、「本当に真剣にやると心がモノにつながって、そこから声が聞こえるような心境になる。その時はじめて価値ある仕事ができるんだ」と表現した。

 この言葉を知った中尾は感銘し、のちにこれを持論にまで高めていったのだ。中尾語録の代名詞になっている「モノが教えてくれる」という思想の原点はここにある(関連記事:「モノがこうしてくれ、と語りかけてくる」)。

実学重視、開拓者精神、そして根気強さ

 中尾を含めた3人に共通する技術者特性は、次の3点に集約されると筆者はみている。

(1) 社会に役立つものをつくるという「実学重視」

 「Anything that won't sell, I don't want to invent」というエジソンの言葉や、「理論より実用を重視」という田中耕一氏(ノーベル賞受賞者)の言葉に代表される島津製作所の伝統は、中尾哲学に通じている。社会の役に立つという使命感が土台としてしっかり根付いていることも共通している。

(2) 好奇心をモノにつなげる「開拓者精神」

 エジソンは言うまでもなく、島津は理化学機器以外にも鉛蓄電池など多岐にわたる分野を開拓した。中尾も多様な家電技術に挑戦し続けた。中尾らの成果は、専門にこだわらず何にでも興味を注ぐ旺盛な好奇心と開拓者精神の賜物と言えよう。

(3) 努力の天才ともいうべき「根気強さ」

 白熱電球のフィラメントの最適材料を見つけ出すために、気の遠くなるような実験を繰り返し、京都・八幡の竹にたどりついたエジソン。「艱難(かんなん)に堪えずして途中で屈伏する人」を「事業の邪魔になる人」として遠ざけた島津の努力と根気強さは、中尾が何より重視した要因でもあった。

 3人とも独創力に秀でており多くの特許を取得したが、共通して学歴はない。このことがかえって既成概念にとらわれない発想を生んだのではないか。豊田自動織機の創業者である豊田佐吉や本田技研工業の創業者である本田宗一郎も三人と同じ部類に入るであろう。