「これは,私の大きなネタ元の一つだったんですよ」──ある書籍の筆者が来日すると聞いたとき,同僚の記者がつぶやいた。

 この場合のネタ元というのは,彼が毎日のようにチェックしている,海外のIT関連の著名人(無名の場合もある)のブログやエッセイなどを指している。彼は,そうしたサイトを読んで,技術者/開発者の間で展開されているホットな話題に触れ,記事企画のインスピレーションやアイディアを得ていたと言う。

 そのネタ元の一つが,Joel Spolsky氏のWebサイト「Joel on Software」だった。国内では,2005年12月にその名の通りの書籍「Joel on Software」(発行 オーム社)が発売されたので,ご存じの方も多いだろう。書籍Joel on Softwareは,Spolsky氏が自身のWebサイトで発表し続けてきた記事をまとめたもの。ソフトウエア開発で大切なことは何かを独特の語り口でわかりやすく解説した好著である。

 さて,同氏の新刊「BEST SOFTWARE WRITING」(翔泳社)が2008年2月に発売された。そして先日,来日を果たし,2008年2月13日,東京で行われた開発者向けイベント「Developers Summit 2008」で講演を行った(関連記事)。ニュースで読む限り,なかなかユニークな講演だったようだ。

BEST SOFTWARE WRITING
BEST SOFTWARE WRITING
翔泳社 発行
Joel Spolsky 編
青木 靖 訳
2008年2月
3129円(税込)

 BEST SOFTWARE WRITINGもまたユニークな書籍である。これは,Spolsky氏が選出したエッセイ集だ。同氏がそうであるように,多くの技術者/開発者が,ソフトウエア開発に関する記事をネット上で公開いている。そうした記事の中から,彼がおもしろいと感じたものを集め,それぞれにコメントを加えて,一冊の書籍にまとめた。彼の言葉を借りれば,『ソフトウェアについての読み物で最高のものを紹介する』(「はじめに」から引用)というわけだ(ただし,原著は2005年に発行されており,各エッセイはその当時,またはそれ以前に書かれたものである)。

 この本には,16人の著者が登場する。「プログラミング言語Java」(ピアソンエディケーション)の筆者として有名なKen Arnold氏,XMLの権威として知られるAdam Bosworth氏,米Microsoftで長年Windowsの開発に携わってきたRaymond Chen氏,「C++の内と外」(ソフトバンククリエイティブ)の筆者Bruce Eckel氏,「ハッカーと画家」(オーム社)や「ANSI Common Lisp」(ピアソンエディケーション)の筆者であるPaul Graham氏など,そうそうたるメンバーが並んでいる。

 内容も様々である。例えば,Michael Bean氏は「プログラマのアウトソーシングの落とし穴」(章のタイトル)の中で,アウトソーシングによって,ソフトウエア会社がイノベーション能力を失う可能性を危惧している。Adam Bosworth氏が「ICSOC04講演」で語る,HTML/XML,PHPなどのようにデザインがシンプルでルーズなソフトウエアこそが長く生き延びるという意見は,非常に説得力がある。Bruce Eckel氏の「強い型付け vs. 強いテスト」は,日本でも開発者の間で話題になったテーマである。同様に,Paul Graham氏の「すごいハッカーとは」も発表当時に賛否両論の物議を醸した。

 そうした硬派の読み物ばかりではない。Gregor Hophe氏の「スターバックスは2フェーズコミットを使わない」では,日常生活は非同期メッセージング・アーキテクチャでモデル化するのが自然,という当たり前の結論になるので“何のこっちゃ?”と思うが,それにいたるまでに,スターバックスの注文処理を真剣に考察している点がおもしろい。Eric Lippert氏の「電球を替えるのにMicrosoft社員は何人必要か?」は,Microsoft内部の官僚主義的な手続きを皮肉っているようにも見えるが,一方で,コード5行程度の新機能を追加するときでさえ,Microsoftはここまでやっているというメッセージとも受け取れる。

 Rubyファンならば,最後に登場するwhy the lucky stiff氏の「(マンガのキツネと学ぶ)短時間の(そして願わくは辛くない)Rubyコース」をぜひ読んでみてほしい。内容をちゃんと読めば,Rubyのまじめな入門記事であることがあるが,いかにもアメリカ的なギャグやユーモアがそれをじゃま?している。このセンスを笑えるかどうかは人によると思うが,筆者は悔しいかな,数カ所でクスッときてしまった。

 優れた技術者が必ずしも優れた書き手になるとは限らないが,ここに登場する著者はみな,自分の考えや意見を,読み手にわかりやすく書くというスキルも持ち合わせていることは確かだ。同時に,その文章や表現内容には,それぞれの個性が投影されており,非常に興味深い。

 日本でも,まつもとゆきひろ氏,小飼弾氏,ひがやすを氏などのように,ソフトウエア開発者として,多くの人に影響を与えるブログを書き続けている人がいる。それぞれが多数の開発者にとってのネタ元になっており,職場やコミュニティ,ブログなどで,それについて活発な意見が交わされている。

 こうした時代に大事なのは,他人の意見を読み,解釈し,それに対して冷静かつ論理的に自分の意見を述べることができる素養だ。独りよがりで,非論理的な意見には,誰も耳を貸さない。自分のブログや記事が,良い意味で他人のネタ元になる──そうした循環は,きっとソフトウエア業界にとってプラスに働くだろう,とBEST SOFTWARE WRITINGを読みながら感じた。