北北工業と城南大学の案件は両者の癒着が判明したため、中田第三事業部長の判断で商談を打ち切りました。残る問題案件のラビット製薬のプロジェクトは、愛須課長と坊津君らの頑張りで、ユーザーとの関係改善にこぎ着けます。そんな矢先、過労がたたり愛須課長が倒れてしまいました。さらに上層部では、第三営業部の生みの親、加納副社長に危機が迫ります。


「では、これにて役員会を閉会します。なにかほかに議題はありませんか?」
 それは、決算数値の最終打ち合わせが終了した3月最後の役員会でのことです。会議終了の合図に社長がそう言ったとき、1人の役員が手を挙げました。

「社長、準備された議題にはありませんが、緊急性があると思いまして提案がございます。よろしいですか」
「なんだね、宇尾野専務」
「品質管理担当役員といたしまして申し上げます」
 宇尾野専務は楕円形の会議卓に座った8人の役員の顔をぐるりと見回すと、こう言いました。
「今月末日、今週の金曜日をもって当社SE全員をラビット製薬から撤退させることを提案します」
 加納副社長は驚きました。カットオーバー目前にして、それも全面撤退とは。
「ええ、品質管理担当役員といたしましては、これ以上の負担はいかがかと思います」
 こいつはなにを言い出すのだろう。加納副社長は訝しく思いましたが、次の瞬間、すべてが分かりました。
「いまからラビット製薬における品質管理レポートをお渡しします。これを作成したのは、担当事業部長である鯨井さんです」

 宇尾野専務が、投資会社を通じて当社を一部上場の大手ソフト開発会社、キングソフトへ売却するという話を持ってきたのはちょうど1年前。加納副社長率いる反対派と激しい対立の結果、先送りになったことは、役員会のメンバーの記憶にも新しいところです。
 当社は、オーナーである社長が株式の過半数を持ち、残りを社長の親族と役員が持つという典型的なオーナー企業です。社長親族名義というのは、もちろんすべて社長の持ち分であり、合計で8割程度。その何割かを売却し、さらにキングソフトに割り当て増資を行い、過半数を持たせ経営権の譲渡、という筋書きでした。

「上場企業であるキングソフト傘下に入ることで、経営は安定し社員も安心して働けることでしょう」
 宇尾野専務の出身は、キングソフトの大口発注元でもあるジャパン電気です。おそらく、身売りすることで、いくらかの特別ボーナスが彼の懐に入り、整理人事の後も居座るという寸法でしょう。
『ジャパン電気から天下りで来たのも、キングソフトへの吸収合併を実現する狙いではないか』この話が出たとき、加納副社長はそう疑いました。
 創業当時からの社長の盟友である加納副社長は、社長に直訴しました。
「高付加価値を実現し、偽装請負から脱出する手段として進めてきた『プライム契約率の向上』も予定通り進んでおります。社長、もう少し様子を見てください」
 加納副社長は必死でした。確かに経営は苦しいのですが、ここで他社の傘下に入ってしまっては、自らが立ち上げた新設営業部隊である中田チームに顔向けができません。それに、買収後のやり方はだいたい想像ができました。管理職はもとより、中堅・若手SE以外は全員切る。総務はもちろん、営業も一般管理費としてしか見ないから全員クビです。

 SEの中途採用費だと思えば、この買収はうまみがあります。いま年収600万円クラスのSEを採用すると、200万円程度の紹介料を人材紹介会社に払わなければなりません。買収により800人近くのSEが獲得できますが、人材紹介会社の紹介だと16億円かかる計算になります。採用での人事部などの経費も考えれば、買収額が20億円だとしてもトントンになります。
『社長をその気にしてはいけない。うちの社員は牛や馬ではないのだ。そんな売り方をされてたまるか。なんとしてでも社長を説得しなければならない』
 加納副社長には、社長説得のための材料がありました。ラビット製薬の案件です。中田第三事業部長が進める中堅企業へのプライム戦略は、着実に成果を上げていました。しかし、社長にそれを理解させるには、「目立つ名前」が必要です。大手上場企業のラビット製薬をプライムで取れたことは、社長の決断に大きな影響を与えていたのです。

「ラビット製薬がどうかしましたか、宇尾野専務」と穏やかに社長が尋ねました。
「秋口に発覚したこのプロジェクトのトラブルなのですが、もうどうにも手の打ちようがありません」
「これはそろそろ問題が集約して、カットオーバーの予定ではないのですか? まあ担当の…鯨井第一事業部長の報告を読んでみましょう」社長はちょっと怪訝な顔をしてそう言いました。
『しまった。こいつらはグルになってオレをはめようとしている』加納副社長は気づきましたが、後の祭りです。社長への説得材料ということもあり、ラビット製薬のトラブルについては社長に報告していません。第一事業部から第三事業部にプロジェクトを移したことも報告していませんでした。宇尾野専務が企業売却の必要性を示す材料にする可能性もあり、役員会にも秘密にしてきました。その“落ち度”を突かれました。しかし、まさか鯨井事業部長が宇尾野専務に…。

「鯨井さん、たまには軽くいきませんか?」
 宇尾野専務が鯨井事業部長を飲みに誘ったのは、その役員会の1週間前のことでした。IBWのOBの鯨井事業部長とジャパン電気出身の宇尾野専務は同じ会社の役員とはいえ、個人的な交流は全くありません。「期末を控え、このアプローチはなんなのだろう」と思った鯨井事業部長でしたが、たまには違うメンツで飲むのもいいかと軽い気持ちで応じました。

「で、鯨井さん。いきなりでなんだが、例のラビット某の件はどうなんですか」
 宇尾野専務がそう尋ねたのは、とある割烹の個室でした。それも、どうやら予約がしてあったようです。
 宇尾野専務は、袴をはいたビール瓶から鯨井事業部長のグラスにビールを注ぎます。
「ああ、宇尾野さん。注いでいただいてすみません」
 グラスを置いて、宇尾野専務にビールを注ぎ返しながら、鯨井事業部長は慎重に説明します。

「じ、実は、もはや私が担当ではなく第三事業部の中田が引き継いでうまくいっているようです」
「うーん。それは困ったことになりましたねえ」
『うまくいっていると報告しているにもかかわらず、困ったこととはどういうことだ?』
 鯨井事業部長は、この宇尾野という男を詳しく知りませんでした。いきなりこんな脂っこい話を持ち出すなんて、と当惑するばかりでした。宇尾野専務が加納副社長のライバルなら、こんなところで密談している自分の立場は確実に悪くなるでしょう。
『迂闊だった。こんな席に簡単に来るんじゃなかった。せめて、この男の素性くらいは調べておけばよかった』と後悔する鯨井事業部長でしたが、もはやこれまでと腹をくくました。客を悪者にするという筋書きで、加納副社長を裏切る。経営危機に陥ったところをキングソフトが支援する形で吸収する。そうすれば鯨井事業部長の立場を保証する――という、宇尾野専務の誘いに乗るのに、さほど時間はかかりませんでした。

 他の役員がレポートに目を通すのを待って、宇尾野専務が話し始めました。
「ここにありますように、当社に対し度重なる仕様変更を要請しながら、対価を一切支払わないというのがラビット製薬の姿勢です。今後当社が付き合う必要があると思えません、従って3月末をもって対応を終了させたいと思います。つまり全員引き上げます」
 場内は水を打ったように静かになりました。

「そ、そんなことをして大丈夫ですか。第一、トラブルの原因は当社ではなかったのですか」
「いえ、社長。このような悪質な客とは断固として戦うべきです。私は品質管理担当として、裁判に持ちこめば勝つと思っています」
「うーん。それも一理ありますね。我々は理由なくユーザーに叩かれすぎだと思っていたところです」
「ちょっと待ってください社長!」
「どうした加納君」
「私が聞いている情報では、顧客はそのような質ではありません!」
 しかし、社長はすぐ遮りました。
「なぜあなたが反論をするのですか? 担当している事業部長の鯨井さんと品質管理の宇尾野専務からの報告に異論があるとでも?」
「い、いえ…しかし…」
「はっきり申し上げましょう。このレポートにあることが事実なら、あなたには赤字プロジェクトを隠蔽していたという疑惑が生じるのですよ。その辺お分かりなんですか」宇尾野専務がたたみかけます。
「ぐぐぐ…」声にならない唸りをあげ拳を握り締めて、加納副社長は着席しました。掌に食い込む爪は、怒りのあまり血がにじんでいます。視界の隅で、ほくそ笑む宇尾野専務がいました。

(イラスト:尾形まどか)

今号のポイント:企業買収における営業としての心得

 ソリューションプロバイダで営業をしている限り避けられないのが、IT企業のM&Aです。自社が買収されるときはもちろんですが、協業先が買収されたら、それまでのビジネスに影響が出ます。単に株主が代わるだけであれば法人格に変化があるわけではありませんので、契約破棄になったりしませんが、営業や SEが辞めてしまえば元も子もありません。裁判で勝ってもお客様に迷惑をかけては意味がない。いつも情報、状況には注意しておきましょう。

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。