第三営業部の生みの親、加納副社長が窮地に陥りました。ラビット製薬とのトラブルは愛須課長や坊津君たちの頑張りでクリアし、いまや完全な信頼関係ができています。ところが、その事実をねじ曲げた報告書が役員会議に上げられ、トラブルを報告していなかった加納副社長は有効な反論ができず、解任の危機に。その窮地を救うのは、やはりこの人しかいません。


 あまりの卑劣な策略に、加納副社長は目の前が少し白くなるのを感じました。
『鯨井のミスを、中田君がカバーしようとしているのに、それに対する鯨井の裏切りはどういうことだ…そうか、このまま中田君がうまくカバーしようものなら、鯨井は降格なりの懲罰人事があるとでも考えたか。そこで宇尾野と利害が一致して…それとも、そそのかされてこうなったのか。いずれにせよ気づくのが遅かった』
「し、しかし、もう納品は目前であると聞いておりますが…」つぶやく声も震える加納副社長です。

「そう、加納副社長のおっしゃる通りです。既にカットオーバーは目前であります。それも、バグだらけのままで、です。このままでは検収が上がるわけがない。さらに訴訟も考えられます。従って先手を打ち、先方の非をついて即刻全員引き上げてから、あちらの出方を見るのもいいでしょう、社長」
「なるほど、なにごとも撤退基準というものが必要、ということですか」
「そうです、あんな無茶ばかりいう客は相手にしないのが、彼らにとっても良い薬です」
「ははは、ラビット製薬は薬屋だけに『良い薬』とはうまいこと言うね」
『ああ、バカ社長め』加納副社長は悶絶しそうです。
「では今年の売り上げ着地見込みは下方修正となるのではないですか?」
『これか! これが狙いだ』ここで、加納副社長は完全に理解しました。
「下方修正の責任は、やはりギリギリまで赤字プロジェクトの隠蔽を画策してきた加納副社長にとっていただくことになりますかねえ」
 宇尾野専務の言葉に、すべての役員が黙り込んでしまいました。最悪のシナリオです。

 加納副社長が責任を取り退任する。業績悪化でキングソフトに支援を仰ぐ。キングソフトから役員が派遣されて、吸収合併への幕が開くという寸法です。
『ここまで必死で頑張ってきた愛須君は、とうとう倒れてしまったというではないか。怒鳴られながら必死で人間関係を作ってきたと聞く坊津や猫柳、そしてなにより、こんなプロジェクトを引き受けてくれた中田君になんと言い訳すればいいのだろう』
 いまやラビット製薬の亀井部長とは、完全にリレーションができてきています。多少の遅れは出るかもしれませんが必ず検収はもらえるでしょう。今後は追加システムの案件も出る。そのリレーションを作ったのは第三事業部の面々ですが、これまでの経緯からそれを説明するわけにもいきません。鯨井第一事業部長がダメな客だと言えば、それが事実なのです。大きな信頼を寄せてくれているラビット製薬の人たちにも多大な迷惑をかけてしまう結果になることも、「システム屋、加納」としては辛い話でした。

 万事休す、どうしようもなくなったそのとき、加納副社長のノートPCに、中田第三事業部長がサインオンしてきたメッセージが表示されました。

(イラスト:尾形まどか)

「お待たせしました、お呼びですか? 加納副社長」
 加納副社長たちが役員会議を行っている部屋に、中田事業部長が入ってきたのは数分後でした。
「な、なかたくん!」加納副社長は立ち上がり中田事業部長に駆け寄りました。
「ラビット製薬からすべてのSEを撤収するということになっとるのだよ!」
 あわてて加納副社長が説明しようとしましたが、それを宇尾野専務が遮りました。

「なんだね、君は! ここは役員会だよ。わきまえたまえ!」 強い口調で出口を指差す宇尾野専務です。
「まあ、待ちなさい。なにか訳がありそうじゃないか。彼の話も聞いてみよう」そう言ったのは社長でした。
 小さく咳払いをして、周囲を見渡し大きく息を吸って中田事業部長が言いました。
「ラビット製薬のことでしたら、ご心配は要りません」
「なにを言ってるんだ。こうやって鯨井事業部長から一方的で頻繁な仕様変更を強要されたというレポートも上がっておるのに…」
「おっしゃる通り、私の事業部の仕事ではありませんが、部下が鯨井さんの事業部に応援に行っております。そして、ここで議論になるような問題はありません」
「社長、この男も隠蔽を…」
「まあ宇尾野君、待ちたまえ。中田事業部長、続けていいですよ。で、どうして問題ではないのかね? 一方的で横暴な会社であり、それを当社の営業では御しきれないと聞いておるが」
 問い掛ける社長に、中田事業部長は微笑みながら上着の内ポケットから1通の書類を出しました。

「ご覧ください、ラビット製薬の検収書です」
「おおっ」と小さな声が役員たちから上がりました。
「そ、そんなバカな。だ、第一、3月末までまだ1週間あるじゃないか。当社のSEは、まだ何人も客先にいる。貴様、どんな手を使ったか知らないが、そんな検収もらったところで、トラブルになるばかりだぞ!」
 宇尾野専務が立ち上がって、机をたたきました。
 しかし、中田は楕円の会議卓の一番奥に座る社長のところまでゆっくり歩いていき、社長の目の前に検収書を広げ、一点を指差しました。
「ここをご覧いただけますか、社長」
「こ、これは…」
 中田事業部長の顔を見上げ、次に役員たちの顔を見回して社長がつぶやきました。
「この検収書には…ひ、日付がない」
「ええっ! どういうことなのだ?」今度は、役員全員が口々に問いかけました。
「こういうことです」
 中田事業部長が説明を始めました。

「ラビット製薬の亀井部長は好きな日付を書き込んでよいと言って、担当営業にこれを渡してくれました。2枚目には瑕疵担保を留保するモジュール一覧表があり、それを記載することが条件と書いてありますが」
「それはどういうことなんだね?」と社長。
「この表に、完璧ではないシステムのモジュールの名前と、それぞれのモジュールのバグフィックスの納期を明記すればよい、ということです。ラビット製薬としても、4月から新システムを一部でもよいから本番稼働させたいとのことで、そのような条件で全体の検収を上げてくれるとのことです」
「こちらとしては、分割検収でもありがたいのに」
「一度は先方でも、分割按分するかという議論になりましたが、今後もどうせバグが出るなら早めに全部検収を上げてしまい、現場の努力の後押しをしようとおっしゃいまして」
「その代わり、日付をこちらに書けと…それぞれの日付は、3月でなくてもよいのかね?」
「はい、自信のある時期でよい、と」
「つまり、バグがあっても検収は上げてやるか…」
「そうです。条件はバグフィックス時期の明記です。逆に言うと、この書面でバグフィックスの確約をしなければ、我々も日付を書き込めません」

 長い沈黙の後、社長が口を開きました。

「なんとも厳しい、しかし、理にかなったご指導ですね。宇尾野さん、我々はこういうお客様を大事にしないといけないのではないですか?中田君たちはお客様と完璧なリレーションを築けているようだ。皆さん、我々は大変な過ちを犯すところでした。先ほどの報告書の中身の問題については、後で宇尾野さんから詳しくお聞きするとして…」
 社長は役員会の閉会を宣言しました。
「加納副社長、食事でもどうです。中田君、君も一緒にどうですか?」
「すみません。実は先週あの検収書と引き換えに、うちのSEが1名、倒れてしまいました。私はこれから病院に行かなければなりません」
「なんですと! で、その社員の容態は?」
「大丈夫です。検査の結果、単なる過労ということです」
「しかし、1週間も入院しているとなると…」
 心配そうに社長が聞きましたが、すぐに中田事業部長が説明しました。

「本人も医者も2、3日の静養で仕事に戻れる、と言っていたのですが、私の指示で休ませているんです。いまも『もう1日だけ寝ていなさい』と説得に行くところなんです」
「では私たちも見舞いに行きますか、加納さん」
「お言葉ですが社長、そんなことをしたら余計に心労をかけることになるんじゃないですか」
「ううむ、その通りかもしれんな。では中田君、頼んだよ。よければ合流してくれたまえ」
 会議室には誰もいなくなりました。

(了)

今号のポイント:営業はビジネスの架け橋

 これで第三部、12回の連載は終了です。毎号、飛ばさずに読んでいただいた読者の皆様、ありがとうございました。さて、今編のテーマはやはり普遍で「営業はビジネスの架け橋である」ということです。それは、お客様と自社、お客様とSE、その両方です。SEが向こう岸に渡るためなら、営業は腰まで水に浸かって当たり前。会社がおかしな方向に橋を渡りそうになったら、その橋を叩き壊すのも営業の仕事だと思います。みなさん、体を張って勝負していきましょう。
 さて、最後になりましたが編集をしていただいたK村副編集長、お世話になりました。毎回締め切りに遅れてすみません。それからイラストの尾形先生。これまた、いつも原稿がギリギリですみませんでした。では、みなさん、お元気で!

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。