坊津君が愛須課長の思わぬ優しさに涙しながら、課長の知られざる過去の話に耳を傾けているとき、リエピーこと後藤さんがつかんだ案件も、思わぬ展開を見せていました。それは、水面下で進められている上場企業同士の事業統合に伴う商談です。当初は乗り気でなかったリエピーですが、「絶対に秘密」と念押しされて聞かされた内容に驚がくすることになります。


 坊津君が愛須課長のサンドイッチを食べる少し前、リエピーは王子繊維の応接室で上野専務の長い説明を聞き終えました。
「分かりました。まとめますから確認してください。えーっと、御社、王子繊維とライバルの上野テキスタイルグループが子会社同士を合併させて、新しい『ウエノダンディ』って紳士服の会社を作る。そして、これは極秘。分かんないけど、株式のことがあって、しゃべっちゃいけないってことですね」
「そういうことだ。そして新しいシステムが必要なわけで…」
「必要なわけで」 物怖じせず言葉を継ぐリエピーです。「当面は2つのシステムを並行稼働させる。でも、社屋移転に伴い、とりあえず端末だけ新しいものに入れ替えるから見積もりが欲しい、というわけですね」
「そうそう、飲み込みのいいお嬢さんだ」
「へへーん、それくらい分かりますよ。だって可愛いもん」
 リエピーのペースに慣れてきた専務は、軽くスルーして、「じゃ、これがスペックだ。早急に見積もりと納期を教えてくれるかな」と書類を渡しました。
「分かりました。極秘だから社名も、なにも書いてません…ね。さすがだなあ」 妙なことに感心するリエピーでした。
「でも、どうして現行のコンピュータ会社に頼まないんですか? 一部上場で大企業、老舗の御社くらいであれば、わがままを聞いてくれるメーカーさんもたくさんあるでしょう?」
「そうだ、そこがわしを困らせているとこなんだよ」

 王子繊維は昔からコンピュータメーカー御三家の1つ、ジャパン電気の牙城として知られています。システム子会社にはジャパン電気の資本も入っており、大型汎用機ユーザーとして取引期間は20年以上に及びます。
 一方の上野テキスタイルグループは、御三家のうちのもう1社、琵琶通のモデルユーザーです。CIO(最高情報責任者)は、様々なコンピュータ雑誌に琵琶通の“広告塔”として顔を出しています。SCM(サプライチェーン・マネジメント)やCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)といった琵琶通の新しい製品は、発売前に上野グループでテストされているという噂さえあります。
 専務によると、この2社を競合させると、人脈による売り込みや腹芸ばかりが先行するとのことです。しかもパソコンなんだから、なにもメインフレーマから買う必要がない。だいたい彼らは自社製品しか持ってこない。パソコンは自由な選択がしたい…。
「なるほどねえ。専務も大変なんだ」
「分かってくれるかね、後藤さん」
「やだ、もう専務、リエピーでいいですよ…あれ? どうしてIBWさんを呼ばないんですか?」
「え? どうしてだね?」
「だってジャパン電気と琵琶通とIBWの3社で御三家ですよね。まだIBWだけお取引がないですよ」
「…おかしなこと言うね、君は競合を増やしたいのか?」

 専務の顔色が一瞬曇りました。
「あ、いえ、そういう意味じゃないんですけど…見積もり、すぐ持って来まーす! どっこいしょっと」
 ちょっとヤブヘビだったかなと思い、ふわふわソファから身をよじって立ち上がったリエピーでした。
「やだ、専務。いまあたしのパンツ見えたんじゃないですか?」
「な、なにを言っとるんだ」
「いやだな、もう冗談ですよ」
『よーし、これですっかりあたしのペースね。あとはどういう提案をしようかしら。といってもハードだけだしなあ…まあ、なんにせよ食い込むチャンス! 上場企業、新規獲得よっ!』
 そんなことを考えながら席を辞そうとしたリエピーを専務が引き止めました。
「ちょっと待ちなさい。ちゃんとスペックや条件を確認してくれたのかね?」
「え?」
「君はあわてものだなあ。資料をよく見なさい」
「あ、はい」 封筒から資料を出し詳細を確認するリエピーです。
「あ! こ、こ、これは!」 資料にはノートパソコン800台、一括納入と書いてありました。
「は、はぴゃ、はぴゃ」 もう一度ソファにひっくり返るリエピーです。
「メーカー選定、機種選定からお願いする。そしてこの話、最後まで極秘で頼むが、できるかな?」
「だって、このスペック…ハイスペックだから1台定価で30万以上はするし、値引きして20万として1億6000万じゃないですか! 喜んでやらせていただきます。すぐに上司と相談して回答いたします」
 飛び上がってぴょこんと一礼すると、専務の部屋を走り出て行ったリエピーでした。

『あー、びっくりした。80台くらいだと思ってた。まさか800台なんて…この商談は大事にしないと』
 思わずカバンを胸に抱えて走るリエピーです。
『もし1億円拾ったら、こんな気分じゃないかなあ。ラッキー、あたし。いつもポジティブに考えてると、運が向こうから飛び込んでくるってお母さんが言ってたし。バカじゃないかって言われても、そうしてた。中田部長も、前向きな姿勢をキープすれば結果はついてくるって言ってたし。良かった!あたしは絶対にこのチャンスを逃したくない』
 ドカッ!
「きゃあ!」
地下鉄の改札を出たところで、小柄な男性とぶつかりました。
「なんだ、後藤!」
「あ、根積課長じゃないですか、前見て歩いてくださいよ…うわ、お酒臭い」

(イラスト:尾形まどか)

「うるさい。お客さんとランチで一口ビールだよ。で、どうだったんだ、客は? ああん? 倒産しそうだったか? 詐欺まがいのインチキ会社だったのか?」
 散々、ロムラン電子の遠藤と中田部長の悪口で盛り上がって飲みすぎた根積課長です。その勢いで、出がけのリエピーの懸念を執念深く突っ込みます。
「いえ、その…やっぱり上場企業はすごいです。応接も豪華でした…」
「ほれみろ、バカがなんでもかんでも中田の言う通りやってりゃ、いいってもんじゃないんだよ、けっ」
 ムカついたリエピーですが、今はそれどころではありません。とにかく商談の報告です。
「それが大変なことになったんですよ。なんとノートパソコン800台ですよ」
「な、なに?」
「あ、こんなとこで言っちゃいけなかったんだ。絶対クチ止めなんですけど」
「ふーん、面白そうな話だな。俺も少し酔いを醒まさないといけないから、そこの喫茶店で話を聞こう」

 最近オフィスの近くにオープンしたシアトル系カフェも、この時間にはひそひそ話に好都合なくらいに閑散としています。
「で、どういう話だったんだ」
「それがですね…」 リエピーは王子繊維のことを事細かに説明しました。
「うーむ」 腕組みをして考え込んでいた根積課長ですが、しばらくしてひとこと言いました。
「そうか、それは絶対に漏らしてはいけないなあ」
「そんなに秘密にしなければいけないんですか?」
「ああ、王子繊維も、上野グループも上場企業だ。そして、これは憶測だが、子会社の紳士服店は路面店が多い、つまり不動産を持っている可能性が高い」
「だと、どうなるんですか?」
「つまり親会社の株価に影響がでるってことだ」
「はい。それで?」
「分かんないやつだな、お前、インサイダー取引って聞いたことないのか?」
「あ、ありますよ…あっ! それに抵触するってことですね」
「そうだ。だからこの話は絶対に秘密。社内でも漏らしてはいけない」
「えーっ! そんなに秘密なんですか? でも中田部長には…」
「大丈夫、それは管理職の私から極秘に伝えておく。他のメンバーにばれたらいかんから、この話はオフィスでは一切しないからな。中田部長も知らんふりをする。お前は私にだけ報告しろ、分かったな」
次回に続く

今号のポイント:大胆な質問でお客の本音を探ろう

 お客様がシステム導入を決めるとき、当たり前のことですが、そこには理由があります。「安かったから」「提案が良かった」「信頼を置ける営業だった」など、なんらかの理由があるということは、誰でも分かるはずです。しかし営業活動というのは、その“理由を作っていく行動”なのだということに、気づいてる人は少ないでしょう。決定理由は「予期せぬ結果」ではないのです。「後から聞いて、なるほどと思いましたよ」なんて言う営業は、まだまだヒヨコです。
「ツボを探す→ツボを満たす→評価を待つ」
 これが正しいプロセスです。
 辺り構わず水を撒きますか?それは無駄というものです。第一、お客様がそのツボに入れてほしいのは砂糖かもしれないし、油かもしれません。どんな種類のツボがどこにあるか?その見当をつけるためには、初回訪問で思い切った質問が必要になります。「なぜ当社を呼んだのですか?」「○○社(ライバル社の名前)でいいじゃないですか」 さあ、思い切って言ってみましょう。お客様の本音が見えてきます。

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。