徹夜で作った見積もり資料を開発部の松本課長にゴミ箱に捨てられ、悔し涙にくれた坊津君。その坊津君に救いの手を差し伸べたのが、なんと「氷の女」と恐れられる愛須課長でした。愛須課長からもらったヒントを基に、坊津君は再び徹夜して見積もり資料を作成します。その資料を松本課長に手渡したとき、坊津君に営業としての転機が訪れます。


 もう一度、坊津君が竜一郎さんこと松本課長のところに来たのは、2日目の徹夜があけてフラフラになった朝でした。とにかく提案を間に合わせなければなりません。本来なら客先に顔を出して、情報収集に努めなければならない時期ですから、早く見積もりの準備を終えなければなりません。受注実績が認められ今年から事業部になったといっても、まだまだ案件は少ない第三事業部です。新規の引き合いで、ここまでこぎ着けたのだから、なにがなんでも提案を見送るわけにはいかないのです。
『俺は、せっかくの愛須課長のヒントを生かすことができたんだろうか?』
 そう自問自答しながら松本課長の前に歩みでた坊津君でした。
「これでどうでしょうか? 読んでいただけますか?」
「うーむ、むむ」
 受け取った資料を黙って読んでいた竜一郎さんでしたが、やおら立ち上がり、資料を持ったまま喫煙コーナーに行ってしまいました。あわてて、後ろをついて行く坊津君です。
「ま、待ってください、なんとか言ってくださいよ」
「うるさい。黙って缶コーヒーでも買ってこい」
 眉間にしわを寄せながら、松本課長は坊津君に向けてピーンと500円硬貨を指で弾きました。
「おわっ」と受け取る坊津君。
「ナイスキャッチ、俺はブラックだからな」
 喫煙コーナーのスツールに座りながら、タバコを2本吸い終わる間、じっくりと資料を見ていた松本課長でしたが、「こりゃ、もういらんな」と言って、坊津君に資料を突き返しました。
「ええーっ、ま、まさか。またですか?」真っ青になる坊津君です。
「まあ、ちょっと待て。もう俺の頭に入ったんだ。いらないと言ったんじゃない」
 そういって何枚かの用紙とペンを取り出すと、松本課長はすらすらと書き始めました。10分ほど経過したとき、机の上には坊津君が必要と思う枚数の何倍もの資料が出来上がりました。
「こんなもんで、ええか?」
「いいも悪いも…まるで魔法だ。どうして僕が2日もかかった資料が…」
「わはは、説明してやろう。しかし、その前に聞け。お前に言っておきたいことが3つある」
「1つ目は、SEの言葉について理解してほしかったということだ」
「何のことですか? 言葉って…、あっ!」
「気づいたか? お前は昨日『日本語で書いてあるのに読めないのか!』って怒ってたよな」
「そうでした…愛須課長にいただいたヒントのお陰で」
「そうか、そうか。愛須さんが教えてくれたのか…よかったなあ。彼女も昔のハートを取り戻してくれたのかなあ…そうなんだ。お前の気づいた通り、SEには標準化された手法、つまりフォーマットや記述方法というものがあって、まあ会社ごとに少しずつ違うのだが、これに基づいて書いたり、読んだりするんだ」
「愛須課長は何種類かのフォーマットをくれたんです。最初は、紙に書かれた単なる“ワク”でしかないと思ったのですが、昨日捨てられた資料をそのフォーマットに落としていけば、読みやすくなるって気付いたんです。抜けや重複部分をチェックすることや、体系だてて並べることもできたんです!」
「そうだ。だから、今日の資料は俺がすぐに読めた。内容を理解して資料を作ることができた。まあラフだから、今からデスクでちゃんとやり直すけど」
「まず理解してほしかったのは、そういう“見積もるための共通の言葉”を、SEだけでなく営業も持たなくてはいけないということだ。そして2つ目が見積もり“そのもの”への理解だ」
「はい」
「実はな。お前がやっていたことは…見積もり作業そのものなんだ」
「ええーっ! なんですって?だって、僕は言われたとおりの入出力一覧、そのレイアウト…それから、それらの起動するタイミング、必要となるテーブル、プログラム名称、ファイル名称、それからファイルのレイアウトって、これくらいやらないから、協力会社になめられるって…」
「種明かしをするとな。俺がお前の要求した資料は、実は見積もり作業そのものなんだよ、わはは」
「ええーっ! もともと僕にそんなのできるわけないじゃないですか!」
「まあ全部じゃないが、やってもらったのは上級SEがやる設計の上流部分なんだな。お前、結構できてたぞ。だから、俺がそれに簡単な計算式と金額を入れるだけで資料がほぼ完成した。金額を入れるのは機械的な作業だからな。ま、ここでは概算だから、ちょっとやればお前でもできる」
「ぼ、ぼくは…竜一郎さんの仕事を手伝ってたんですか! なんだ、そんなのインチキじゃないか! そんなの営業の仕事じゃないじゃないですか…でも、僕はプログラム組めないのに…その僕が上級SEの仕事ができた? どういうことですか」
 怒りながらも、狐につままれたような顔になった坊津君です。
「わははは。そう怒るな、怒るな。こりゃ中田さんの指示なんだ」
「くっそー、あんたらグルかよ…中田部長も帰国そうそう意地悪だあ」
「バカ、意地悪でこんなことするもんか。ほら、この資料を、原型を作った自分の視点で見てみろ」
 そう言って竜一郎さんは資料を坊津君に渡しました。
「あ、なんか。すごい。そう言われてみたら…分かる。分かる!何が書いてあるのか、どうしてここがこんな金額になるのか…あ、そうか。この部分は情報がなく細かく書けないからか。あっ、ここはしっかり細かく見積もってある。なんか見積もりが、すらすら読めるようになってる!」

(イラスト:尾形まどか)

「ということは、どういうことだ? 次は営業の視点で見てみろ」
「そうか、ここをはっきりさせれば、安く見積もることができるんだ。あっ、ここはプライオリティが高くないサブシステムなのに、見積もりのウェイトが結構大きいぞ。これは提案内容から削ってしまってもいいかもしれない。削ってもこっちのサブシステムには影響しないし…すごい!提案が柔軟にできそうです。SEにも単に『安くしてください』じゃなくて、きちんとした相談ができます」
「そういうことだ。SEにリスクを押し付けないで、価格の調整ができる。それどころか、SEの負担を軽減することもできるんだ。お前はそのことをこの2日間で勉強したってことだよ」
「ありがとうございます! 俺、なんかすごい営業としてのレベルが上がったみたいだ! でも最初から教えてくれればよかったのに…」
「わははは。必要は学習の母っていうじゃないか?」
「いや、それは発明の母です」
「ま、なんでもいい。営業は、勉強が嫌いなやつが多いからな。座学じゃ、身につかないんだ。普通の教え方じゃ、たった2日で身につくわけがない。必要に迫られんとな。それに俺に対する怒りが、お前を必死にさせたこともあるだろう」
「あ、そりゃ昨日は『あのデブ』とか怒ってましたけど。今はもう感謝感激です。でも全部、中田部長と竜一郎さんの手の平の上ってこと。くそー、コロス」
 笑ったり怒ったりと忙しい坊津君です。
「わはは、まあ坊津の技術的な勉強は端緒についたとこってことだ。これで分かったような気にならないで、もっと勉強しろよ」
「で、竜一郎さん3つ目って…」
「そうだ。3つ目は、これは中田さんの指示じゃない。俺からの頼みだ」
 缶コーヒーをぐっと空けて、竜一郎さんはまっすぐに坊津君に向き直りました。
「いいか、お前には本物の営業になってほしいってことなんだ」
「本物の営業って? どういう意味ですか」
「うーん。どうしようかな…そうだ、とりあえず今夜雀荘で解説してやるよ」
「ひ、ひでえ。また巻き上げるんですか。やっぱ、あんた尊敬できねえー」
次回に続く

今号のポイント:本物の営業担当とニセモノ営業の違いとは

 先日、あるシステムインテグレータの役員から、「うちは営業が弱いんだけど、どうしたら強くなるだろう?」と相談を持ち掛けられました。それもそのはず、その会社には営業担当がいないんです。でも、そのことにお気づきになっていない。
 あなたが「営業担当」と呼んでいる人は「営業事務担当」なんです。部長、課長もたくさんいますが、営業部長ではなく営業事務部長、営業課長ではなく伝書鳩課長。SEの作った見積もりをもっていくだけ。クレームがでたら、内容なんかそっちのけで謝るだけ。「SEの尻ぬぐいだよ」なんて的外れに、ぼやいている。こういう人が「営業部長」の肩書きを付けているんですね。
 開発部の中にも、「営業はどうせ内容が分からんのだから、これを届けさせるだけでいいんだ」。そんなふうに考えるSEが多いのも事実。そうした姿勢が、若手営業が育たない土壌につながるんです。
 「うちの営業は書類届けるだけだなあ」「そうか、それなら営業をリストラするから、これからは書類を自分で届けてくれ」「え?」「書類を届けるついでに、営業してきてくれ」「何ですか?」「はい、今月から君は営業部長兼任ね」となるわけです。
 これで営業経験のない「営業部長一丁上がり!」ってわけですよ、専務! これで御社の営業が弱い理由、分かりましたか?

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。