「あとで追いかけるから、出て行ってくれ」そう言って平成スタッフの河合主任は、坊津君と猫柳君を追い出しました。明日までに見積もりの概算を出してほしいという平成スタッフの広石課長の無茶な要求を、坊津君が安請け合いしたのが事の発端です。中田課長の指示もあり、窮余の策として親しい河合主任を訪ねた2人ですが、何やら“陰謀”の影がちらついています。


「こっちでいいんですか?」
「うーん、地図の通りだと、こっちなんだけど…」
 河合主任の指示通り待ち合わせ場所に急ぐ坊津君と猫柳です。「あった。ここだ」
 2人が到着したのは、赤ちょうちんがぶら下がった路地裏の小さな焼き鳥屋でした。

「先輩、並んで座るんですかね、こういう場合」
「なんかオカマのカップルっぽくないか、俺たち」
 緊急事態だというのに4人がけの席を前に、つい「どこに座るのか」なんて考えてしまうのは、営業の悲しい性(さが)でしょうか。
「いらっしゃい、お飲み物から伺いますが?」
「すみません、連れが来ますので…」
「やっぱり会社の人に内緒で大事な話があるってことですかね? 先輩」
「そうだろうな。あと考えられる可能性は1つ」
「それは? ほかに何があるんですか?」
「この店の焼き鳥がすげえ美味いか、だな。それにしても腹減った」
 一瞬でも『おおっ、さすが先輩!』と思った猫柳君は、ちょっとむかつきました。

 1時間以上が過ぎてお店の人も声をかけなくなったころ、ドアが開き「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」と、やっと河合主任の登場です。
「あ、なんだ、先にやっててくれてよかったのに。待ってていただいて申し訳ない」
「あ、全然平気です」と猫柳くんが言うと同時に、「ぐうぅぅぅ」と坊津君のおなかが派手に鳴りました。
「あはは、早速何か食べましょう、やはりお二人は正直だ。すみません、生中3つ」
 さすがに赤くなる坊津君。3人は笑いながら、運ばれてきたビールのジョッキを上げ乾杯しました。

「今日は突然押しかけまして申し訳ありません」「お時間いただいてありがとうございます」
 坊津君と猫柳君がお礼を言いました。
「いえいえ、お二人とは一度、飲みたいなと思ってたんですよ。きっかけはどうあれ今夜はまあ良かった」
 この河合主任はもともと猫柳君の飛び込みを受け入れてくれたうえ、提案の方向性を勘違いしたときもヒントをくれた人です。なんだか仲良くなれそうな感じで2人はうれしいのですが、それにしても明日の難題があります。次に何と切り出していいのか分からない2人でした。しかし、そこは先輩の坊津君。「この店はいつも来られるんですか?」と、さりげない話から切り出しました。

「そうだね、なかなか美味いのを食わせるんだよ。2人とも鳥でよかったの? 好き嫌いは?」ジョッキを明けながら河合主任が聞いてくれました。
「私は大丈夫ですが、この猫柳は好き嫌いが激しくて」
「あ、いえいえ僕、焼き鳥は大好物です、ネコですから。えへへ」
「お前、野菜ぜんぜん食わねーじゃねーかよ」
「最近、お客様との食事のために練習してますよー、やだなー先輩。なにも河合さんにバラさなくても」
「あはは、そういう君たちが好きなんだよなあ。でも2人とも例のこと、かなり気になってるようだね。こんなとこで、ビール飲んでる場合じゃないかもしれないな。分かった。早速本題に入ろう。うちの広石は『明日までに概算見積もりを出せ』と言ったんだね」
「そうなんですよ。正直、我々もどうしたらよいか分からなくなってしまいまして」と坊津君。
「ここだけの話…」河合主任が焼き鳥の串にかじりつきながら話し始めました。

「中田くん…いつまでこうやって待っていたらいいのかね?」中田課長に会議室に缶詰にされた加納専務が悲しそうにききました。
「同伴はキャンセルしたが、今日は、ほら、あの店のママの誕生日なんだよ。なんとか顔を出しに行かせてくれんか? ほれ、プレゼントも…」
「あのですね、『ほれプレゼントも』じゃないですよ。大事なところなんです。あと少し待ってください。今から詳細なご説明を差し上げます」
「失礼しまーす」リエピーこと後藤さんがコーヒーを持ってきました。

「お、すまないね…」と加納専務がカップを受け取り、コーヒーをすすりました。
「げえ、なんだ。この甘ったるいのは。私はいつもブラックしか飲まんのだ。入れ替えてくれんか」加納専務は顔をしかめました。
「もう専務ったらダメですよ。7時を回って、おなかすいたでしょ? 血糖値が下がったら的確な判断できませんから、ちゃんと飲んでください。砂糖を3杯も入れた人の親切を、なんだと思ってるのかしら」
 そう言ってリエピーは部屋を出て行きました。
「あ、サクちゃん。中田だ。次に坊津から電話があったらここにつないでくれ。そうだ、あとコーヒーを…」
 内線で電話をした中田課長が目配せをしましたが、加納専務は手を振って、リエピーの持ってきたコーヒーに口をつけました。

(イラスト:尾形まどか)

「と、いうことは…どういうことですか?」
「もう一度整理して話をしよう」
 焼き鳥屋で河合主任が話をまとめに入ります。
「当社は急成長した。会社として歴史が浅い。必然的に管理職は中途採用が多い」
「なるほど」うなずく坊津君と猫柳君です。

「急成長した要因の1つに能力主義の徹底があるが、最近はスタッフ職にも、それが要求されつつある。そんなこと言っても、営業職みたいにガンガン仕事を取ってくるわけにいかないのが我々スタッフだ。そこで、次期人事システムを掌握することで、自分たちの実績にしようと…」
「先ほどおっしゃった『人事部と情報システム部の主導権争い』が起こっているわけですね」と猫柳君。
「そうだ、ネコちゃん、その通り。生、お代わり」
 ドンとジョッキを置く河合主任です。

「で、どうして、それが当社への急な見積もり依頼につながるんですか?」
「そこだよ、坊津君。君たちに見積もりを頼んだ広石課長だが、彼は以前勤めていた会社で琵琶通と懇意だったようなんだ。なんでも琵琶通の営業は、その会社のシステム導入で、広石と一緒に苦労したSEを連れてきたそうだ」
「げ、そこまでやりますか! 琵琶通さん…」
 驚く坊津君です。率直に『上には上の営業がいるもんだなあ』とも思いました。
「そうだよ、それを調べて連れてくるのは、大した営業だと思う。なんでも転勤先の名古屋から連れてきたらしいよ。でも、だからと言って、君たちの会社の見積もりを当て馬に使っていいとは思わないんだ」

「げげげっ、当て馬!」
「何ですか先輩、アテウマって?」
「あれだよ、うちの見積もりを参考に琵琶通が少し安い見積もりを作るんだ」
「ええっ? そんなのインチキだ。後出しジャンケンだよー」泣き出す猫柳君。
「でも、どうして、うちなんですか?」
「ずばり言うけど。御社は中小だから、大手メーカーよりソフト部分は安いだろうと考えたんだろうな。君たち以外はジャパン電気もIBWもメーカーだから、価格面で怖いのは君たちなんだろう」
「琵琶通さんに怖がられてるんですか。それはちょっと光栄です。えへへ」
「バカ、ネコ。喜んでる場合か。で、河合主任、僕らはどうすればいいんですか?」
「決して君たちに肩入れするわけじゃないけど、不公平なコンペは許せない。だから僕も情報をリークすることにした。ちょっと耳を貸せ。これで君たちは最終コンペに残れる」

「課長、坊津から電話です」あと少しで9時というころ、会議室に電話を取り付いでくれたのは内藤主任でした。「あ、坊津か? ご苦労さん」
 電話の向こうから坊津君の高揚した声が聞こえました。「課長、こんな時間までどこへ行ってたんですか? 今すごく重要な情報を手に入れたとこなんです」
「で、金額はいくらだ?」間髪を入れずに中田課長は聞き返しました。
「あれ? なんで価格情報を入手できたって分かったんですか?」
 坊津君が握り締めているメモには、初期段階で聞いていた2億円の予算の概算が3億円に増えたことと、見積もり条件の変更点が書いてありました。
「あれだけ切羽詰った状態で訪問すれば、そりゃ客だって何か教えてくれるだろうよ」
 こともなげに言う中田課長でした。(次回に続く

今号のポイント:当て馬が分からない提案活動は最悪

 企業は高額な投資の際、必ず合い見積もりを取ります。業者を競争させ、安くて良い商品を導入しようとするのは当然のことです。しかし、納入業者を内定しているにもかかわらず、他社からも見積もりを取る「当て馬」ってどうなんでしょう。「インチキじゃないですか。ふざけんなっ!」と怒るのはお子様です。逆の立場を狙えばよいのです。コンペが始まる前に受注が決まっているのは、理想パターン。自分以外は全部当て馬、これは最高です。勝負になるまで分からないという営業なら、だれでもできます。最悪なのは、当て馬が分からないで一生懸命提案ばかりしている営業です。君の仕事は営業活動であって、提案活動じゃありませんよ!

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。