新人の後藤さんの営業に中田課長が同行した、まさにその時、坊津君と猫柳君には事件が持ち上がっていました。平成スタッフの広石課長が突然、2人を呼び出し、翌日までに見積もりの概算を出してほしいと言い出したのです。この案件は2人が開拓し、第三営業部にとって初受注になるかもしれない重要な案件です。二つ返事で引き受けた坊津君ですが、猫柳君は心配でたまりません。


「どうするんですか? 坊津先輩! あんな約束しちゃって」
「うるせえ、断るわけにいかんだろうが。あの場でできませんなんて言えねえよ。どっこいしょっと」
 行きがかり上、明日までに見積もりを提出すると約束してしまった坊津君と猫柳君ですが、どうしていいのか分からず、駅のベンチで座り込んでしまいました。

「SEに見積もり頼めるんですか…もう4時ですよ」
「…」
「もう! どうするんですかっ!」
「なんで怒るんだよー、ネコ。俺もどうしていいか分かんないよう…」
「やっぱり、課長に相談しますか」
「そうだな、あっ、今日はゴリエと同行してるよ」
「ケータイに電話してみましょう」
 猫柳君に促され、坊津君は携帯電話を取り出しました。

「あ、課長、お疲れ様です。実は、いま平成スタッフの近くの駅なんですが、かくかくしかじかで…」
 事の顛末を説明する坊津君です。
「うーん…」しばらくの沈黙の後、「とりあえずそこにいろ。俺から連絡があるまで、じっとしてるんだぞ」そう言って中田課長は電話を切りました。
「うぇ? あ、待ってください…あーあ。切っちゃったよ」
「先輩、どうでした?」 心配そうに猫柳君が聞きました。
「ここいろって…」
「なんですか? それ?」
「なんか分かんないけど、ここにいよう。課長たちは電車の中だったみたいだし」
「じゃ、降りたら電話くれますね。僕、コーヒーでも買ってきまーす」
 2人は夕暮れの駅で電話を待つことにしました。

(イラスト:尾形まどか)

「課長、いまの電話、坊津先輩じゃないんですか?」
 こちらは電車の中のリエピーと中田課長です。
「うむ。また難題だ」
「どうしたんですか?」
「君はいい。それよりオフィスまでどれくらいだ?」
「1時間くらいですかね。まあ、なんだか分かんないけど、ほんと坊津先輩はおっちょこちょいですからね、あたしのほうが先に受注しちゃいますよ、えへへっ」
 彼女の明るさに少し救われたような気がした中田課長です。電車は地下に入り携帯電話の電波は届かなくなりました。

「遅いですね。課長」
「そうだな。もう1時間以上たつぞ」
「なにやってるんでしょうね」
「あきれて、見捨てた、とか」
「うそですよー。でも見捨てたとしたら先輩の安請け合いが原因で、課長怒ったんですよ」
「さっきから圏外だしなあ…」
 不安そうに2人が話をしていると、坊津君の携帯電話の着メロがなりました。

「あ、課長のケータイだ。もしもーし、待ってました、課長、助けてくださいよー」
「えへへー、課長じゃないです、リエピーでーす」
「バカヤロー! ゴリエ、ふざけてんじゃねーよ」
「もしもし、中田です。ごめん、ごめん。後藤が無理やり…」
「もう課長、勘弁して下さいよー。で、見積もりなんですけど、どうしたらよいでしょうか? 課長の指示を待ってるうちに、もう5時過ぎですよ」
「なんで俺に聞くんだ」
「え? だって…」
「お前らの提案するシステムを買うのはだれだ」
「平成スタッフさんです」
「じゃ、平成スタッフに聞きに行け」
「え?」
「じゃあな。とりあえず行って来い…プーップーッ」
「電話、切れちゃった」
 坊津君は携帯電話を持って呆然としています。

「どうしたんですか? 先輩」
「どうしたらいいか、平成スタッフに聞きに行けってさ」
「え? 課長は指示してくれなかったんですか?」
「買うのは俺じゃねえよって」
「そんなあぁ! でも、それもそうですね」
 妙に納得する猫柳君は「とりあえず行きましょうか」と立ち上がりました。
「ちょっと待てよ、ネコ。だれんとこ行くんだよ」
「そりゃ僕らに優しかった河合主任のとこでしょ」
「で、なに聞くんだよ」
「あ、そうか。それ分かんないですね。もう1回課長に電話して聞いてみましょうよ」
「だめだ。つながらない…」
「会社はどうですか?」
「…だめだ。留守だそうだ」
 駅のベンチで途方にくれる2人でした。

「電話、出なくていいんですか?」
「あのね、勝手に俺の電話に出るんじゃない」
「だって坊津先輩、ミスして落ち込んでるんでしょ? あたしの可愛い声で元気付けてあげないと」
「…」
中田課長とリエピーの2人は、にぎやかにオフィスのドアを開けました。
「後藤、すぐに加納専務のところに行って、会議室でお会いしたいと伝えてくれ」「分かりました」
「桜井、内藤! 坊津、猫柳から電話がかかってきても、俺はまだ帰ってきていないと言ってくれ」
「え? どうしてですか?」
「いいから、指示通りにしろ」
 怪訝な顔をしながら、うなずく2人でした。

 一方、こちらは指示待ちの2人です。
「せんぱーい。もう真っ暗じゃないですか」
「課長が帰ってきたら、電話をもらえるはずなんだけど」
「もう帰ってこないんじゃないですか?」
「課長は俺達を見捨てないはず…なんかあったのかな」
「とりあえず行きますかぁ」もう半泣きの猫柳君です。
「しょうがない。行ってみよう。課長の最後の指示は『とりあえず行け』だからな。河合主任のところに行って相談するしかないな」
「もう、すがるところはそこしかありませんね」
 平成スタッフの河合主任に電話して、近くの駅にいてお会いしたいとお願いする2人でした。

「むむむ。明日まで待てなかったのか…。本来なら明日、君が行って、いろいろ見極めて情報を得る手はずではなかったのか?」暗くなった会議室で、加納専務が腕組みをしてうなっています。
「すみません。私が外出中でして」
「で、どうするんだ?」
「まもなく2人が帰ってきます。帰ってきたら見積もりの決裁をいただきたい」
「えっ、 決裁資料は? 2億円程度の案件だと聞いているが、見積もり根拠や開発部の裏付けがないとな…」
「資料は今から作ります。しかし、開発部の裏付けなど不足する部分が相当あると思います。それを前提に決裁をお願いしたいんです。2億円までの見積もりなら、専務決裁じゃないですか」
「それはそうだが…」
「とにかく、彼らが帰ってくるまで帰宅禁止ですからね」
 机を回り込んで専務の隣に座り、中田課長はすごみました。
「おっおっお、なんかすごい迫力だな。今夜は銀座で飲む予定なんだが…ま、とにかく彼らを待とう」
 加納専務もハラをくくったようでした。

 一方、こちらは平成スタッフです。
「遅い時間にすみません」「突然申し訳ありません」坊津君と猫柳君が河合主任に頭を下げています。
「いやいや、まだ残業の時間だしね。大丈夫だよ、で、今日は突然どうしたんだい?」
 彼らは、情報システム部の広石課長に呼び出されて、明日までに概算見積もりを出さなければならなくなって困っていることを、正直に説明しました。
 河合主任の顔が一瞬、曇りました。
「君たち、来ることは広石には言ってないよね」
「はい、まずかったですか?」
「いや、そうじゃない。とりあえず出て行ってくれるか」
「ええ?」
「ここからだと少し歩くけど…ここで待っていてくれ」
 河合主任はノートにさっと地図を書くと、そのページを破いて渡しました。
「出口はこっちだ。30分くらいで追いかける」
 なんだか分からないうちに通用口に連れて行かれて追い出された2人でした。(次回に続く

今号のポイント:ピンチのときに真価を発揮する組織営業

 「組織営業」という言葉があります。なんだか科学的な営業理論のようですが、意味を履き違えている人が多いような気がします。フォワード、ミッドフィールダー、バックスと役割を分担するのが近代サッカーですが、「走る人」「ボールを受け止める人」「シュートする人」という分担だと誤解すると、どうなるでしょう。3人で一人前ということになり、サッカーをするのに33人が必要になってしまいます。若手にドアノックさせ、提案はSE、刈り取りはワシがやる、ですって?あなた、来月から給料は3分の1ですよ。第一、そんなことしていると若手が育ちません。本物の組織営業は、ピンチのとき、その真価が発揮されるものです。

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。