日経バイトの2003年2月号で「Linuxルネッサンス」という特集を担当し,Linuxにかかわっている多くの方々に取材した。分かったのは,現在のLinuxには間違いなく勢いがあるということだ。理由はいくつか考えられる。IBMをはじめとする大手メーカーの後ろ盾を得たのが大きいし,Linuxのカーネル自体が大規模システムにも耐えられるよう急速に進化しているのも理由の一つだ。

 しかし,Linuxにはそれだけでは説明できない魅力がある。Linuxはなぜ人々に愛されるのだろう?

 考えついたのが,「Linux=豊臣秀吉」説である。Linuxは“パソコン用UNIX”と説明されることが多いが,正確にはUNIXではない。「UNIX」と名乗ることができるのは,米AT&T社が開発したオリジナルのUNIXを起源に持つOSだけである。その意味ではLinuxはUNIX互換OSに過ぎない。

 Linus Torvalds氏が趣味で作り始めたLinuxカーネルに,GNUプロジェクトで開発されたCライブラリ(glibc)やbashなどのシェル,オープンソースのウインドウ・システムであるXFree86などを組み合わせてOSとして機能するようにしたものだからだ。こうした「正統なUNIXではない」点が「武家の出身ではない」秀吉と妙に似ているのだ。

 Linuxも秀吉も,「正統ではない」点で評価されにくいという宿命を持っていた。逆に,だからこそ従来のしがらみにとらわれることなく,自由な発想を持てたのだと思う。よいものがあれば,こだわりなく吸収するどん欲さ,言い換えればいい意味での「節操のなさ」だ。

 Linuxのこだわりのなさは,誕生した時から際だっていた。LinuxはWindowsに対抗するOSとして語られることが多いが,開発当初から,パソコンにすでにインストールされているMicrosoftのMS-DOS/Windowsとデュアル・ブートできるよう作られていた。開発者のLinus Torvalds氏自身がそうした使い方をしていたからだ。LinuxにとってWindowsは敵でも何でもなく,最初から隣人だったのである。

なぜFreeBSDではいけなかったのか

 こうしたLinuxの性格は,かつてライバルだった(というのは失礼な言い方だが)FreeBSDと比較すると分かりやすい。取材期間中の2002年12月18日,「BSD/Linux Day」というシンポジウムがあり,特集に役立つと思い聴講した。

 印象的だったのが,昔ながらの環境に固執するFreeBSDユーザーのかたくなさだ。特にGUIに対する嫌悪感たるやすさまじいものがあった。Linuxでよく使われているデスクトップ環境であるK Desktop Environment(KDE)のメニューを「気持ち悪い」と言い捨てるFreeBSDユーザーすらいた。こうしたコミュニティの中から初心者に使いやすいインタフェースなど出てくるわけがない。プライドの高さはまるで「明智光秀」である。

 一方Linuxは,「使いやすければWindowsの真似だって平気」というスタンスだ。Linuxで使われている二大デスクトップ環境であるGNU Network Object Model Environment(GNOME)とKDEは,いずれもWindowsのGUIを真似て作られている。画面左下からアクセスするメニュー,デスクトップ上に置けるショートカット,ごみ箱などだ。

 GNOMEで使えるアプリケーションには,米Ximian社が開発したOutlookそっくりのクライアント「Ximian Evolution」もある。米CodeWeavers社はLinux上でWindows用のOfficeを動作させられる製品「CrossOver Office」を開発した。Windowsエミュレータの一種であるWineを利用するものだ。

 「メジャーになったのがなぜFreeBSDではなくLinuxだったのか?」というのは取材当初からの疑問だった。そこで,さまざまな取材先にこの質問をぶつけてみた。

 ある人は「時の運」と言い,ある人は「Linus Torvalds氏のやさしい独裁者モデルがよかったのでは」と言った。いずれもその通りである。だが,最大の理由は「FreeBSDのかたくなさ」と「Linuxの節操のなさ」の違いにあったのではないかと私は思っている。FreeBSDはUNIXの世界で閉じている。これに対しLinuxには,UNIXの成果もWindowsの成果も取り入れるどん欲さがある。

 Linuxは,サーバー用途では急速に普及が始まっているが,クライアント用OSとしてはまだWindowsを脅かす存在にはなっていない。ビジネス・アプリケーション,周辺機器対応,印刷機能,フォントなどWindowsにかなわない点がまだまだ多いからだ。

 しかし,Linuxが着実に進化を続ける限り,これらの問題はいずれ解決する。そうすれば,Linuxの節操のなさはWindowsをも飲み込んでしまうかもしれない。私たちが使っているOSがいつの間にか「WindowsそっくりのLinux」にならないとは限らないのである。

(大森 敏行=日経バイト副編集長)