日経パソコンは、創刊30周年を記念して、コンピューティングの歴史を振り返る企画「時代を築いたデジタル製品」をシリーズ掲載している。今回は、2013年8月12日号「プリンター30年の進化史」でセイコーエプソンの碓井稔社長に聞いた、同社の「カラリオ」シリーズの進化について、誌面では紹介しきれなかった話も含めて掲載する。
■当初エプソンはどのようなプリンターからスタートしたのでしょうか
私が1979年に入社した当時、まだエプソンは電子レジスター(ECR)や電卓向けの小さなプリンターが主力のメーカーでした。特に、電卓向けが台数や事業規模も大きかったです。私も最初はそうした小型プリンターの設計をしていました。エプソンが1968年に初めて出した小型プリンター「EP-101」もまだ残っていたと思います。
■EP-101はどのような点が優れていたのでしょうか
直接は知りませんが、次のような話を聞いています。その頃のプリンターはサイズが大きくて壊れやすかったため、今のコピー機のように、メンテナンスサービスとセットで販売するビジネスでした。一方、EP-101は小型で信頼性が高く、メンテナンスがいらない製品でした。当時から信頼性に対するこだわりがあったのだと思います。それからしばらくは、電卓やPOS、電子レジスターなどに向けて、プリンターのメカニズムを供給するのがビジネスの柱でした。
大きな転機を迎えたのは、電子レジスター用のドットインパクトプリンター「TP-80」を改良して、パソコン用に「MP-80」を出してからです。当時パソコン用プリンターの部門は5~6人しかいませんでした。MP-80は紙送りなどの信頼性が高く、米IBMへOEM供給したこともあって大ヒットし、米国、欧州、南米などに販路を拡張できました。「EPSON」のブランドも一般の人に知られるようになりました。
■当時、将来写真が印刷できると思っていましたか
活字式プリンターがドットインパクトプリンターに進化して、簡単なグラフィックスは印刷できるようになりました。次はカラー化で、その先には写真印刷という思いはありました。印刷物としては一番きれいなものは写真でしたから。
その後、ソニーが「マビカ」を出して写真印刷が注目されたときに、私は、熱転写方式のビデオプリンターの開発担当になりました。しかし、ビデオプリンターはうまくいきませんでした。印刷するソースがほとんどなかったからです。当時はデジタルカメラがなかったので、テレビ画面を印刷するか、ビデオの静止画を印刷するしかありません。また、高価な割には、銀塩写真ほどきれいに印刷できませんでした。印刷しようと思っても写真コンテンツがないという時代でした。