前々回、巨大不平等を是正して、経済を回すにはを書いてから、一体国家とは何なのだろうか、と考えている。

 今回、先に言い訳をしておく。この問題を考え始めて、色々資料を漁ったのだが、設問が大きすぎるせいもあってなかなか「これだ」という結論にたどり着けていない。だから、今回の記事は私の思考の途中経過の報告ということになる。「そんな考えもあるか」と軽く読み飛ばしてもらえれば幸いだ。

 そもそも、この疑問を抱いたのはアルビン・トフラー「第三の波」の国家の衰退と超国家的規模の企業の伸長などを予測した部分を読んでいる時だった。超国家企業は分かる。それは、いくつもの国家に跨がって営利活動を営む組織だ。では、そんな組織に取って代わられて衰退するという国家とは何なのだろう。どう定義されるのだろうか。

 ちょっと検索をかけると、国家の三要素というものが出てくる(白状しよう。最初に見たのはWikipediaだった)。領域(領土)、人民(国民)、権力だ。この3つがそろえば国家だというのだが、「第三の波」を読んで、頭が未来向きになっていた私には、どうも技術の進歩でこの定義も怪しくなっているように思われた。

 私は過去30年近く、技術分野の動向をウオッチしてきた。技術面で1つブレイクスルーがあると、次々に考え得る限りのサービスが生まれる。しかも、その時々の我々の想像力は悲しくなるほど限定されている。

 MP3のような圧縮音声フォーマットが出現した時、私が考えたのは「これでCD1枚に10枚分の音楽が入る」ということだった。ハードディスクを使ったiPodのような携帯音楽プレーヤーが出現するとは想像できなかった。iPod発売時に「これですべてのCDコレクションを持ち歩けるようになる」と思ったが、iTunes Music Storeのような音楽ダウンロード販売が可能だとは気がつかなかった。そしてiTunes Music Storeがサービスを開始した段階では、手持ちのすべての楽曲を自分が持つどの音楽デバイスからもダウンロード可能にするiTunes Matchのようなサービスが可能とは夢にも思わなかった。

 もちろん、これは私の想像力が貧困であることの証明だ。常にどこかで自分より賢く先が見える人が、次の展開を考えている。次の展開は常に自分の想像力の、さらに先を行っている。

 新技術が社会にもたらす影響を考えるなら、「そんなことはあり得ない」は禁句だ。自分が想像もできなかった凄いことが起きると覚悟しておく必要がある。