まず昔話から。

 私は1986年に新社会人となり、雑誌記者として働き出した。

 あのころ、会社の中は、社員でもない人がけっこううろうろしていた。保険の外交員のおばさんがふらっとやってきて机にあめ玉と保険のパンフレットを置いていったり、昼ごろになると清涼飲料水販売のワゴンがごろごろと回ってきたりしていた。

 取材先も、さすがにメーカーは入館にうるさかったが、霞が関の官庁街は緩やかなものだった。私はよく科学技術庁と通商産業省に取材に行ったが、どちらも入り口で身分チェックと誰に会うか面会票を書く……ということもなく、するりと入っていくことができた。科技庁は年末になると特別警戒と称して出入り口に警備員が立つ。それでも警備員に名刺を見せると「あ、お通り下さい」と敬礼され、そのまま入って行けた。

 それどころかアポイント以外の人の席にいって「これこれの話聞きたいんですけれど」と言うと、特に忙しくない限り相手をしてくれた。実際問題として特にアポイントというものは必要なかったのだ。廊下にはボロのソファが置いてあって、相手が忙しい時はそこに座って待った。

 働く側にとっても、そういう緩さはあったのだろう。机の上に趣味の「芸術新潮」誌だけを積み上げていて、いつも机に脚をのせて読んでいた課長補佐の姿を思い出すことができる。年末、来年度予算が国会にかかる時期になると、どの省庁でも誰かしらが寝泊まりしていた。夕方に行くと、課を挙げて酒盛りをしていて「記者さん、一緒に飲まない?」と誘われもした。そこで出てくる内輪話は貴重な情報源だった。

 まあ、緩かったもんだよなあ、と思っていたら、昭和30年代に某中央官庁相手に営業をかけていた方の話を聴く機会があり、文字通りひっくり返った。自社製品を役所に購入してもらうべく日参していたら、「そんなに来るなら机をやる」と言われ、自分専用の机ができてしまったというのだ。自分の会社には行かずに毎日官庁に通って、情報収集に努めたそうだ。

 その方は当時珍しかったマイカーを持っていた。年末の予算絡みで徹夜の時期になると、マイカー通勤をして、深夜まで働いた官僚たちを家まで送ったという。もちろん下心なしで家まで送ったわけではない。自動車の中で官僚たちが交わす会話は、受注競争を勝ち抜くにあたって得がたい情報源となったそうだ。

 昨今はそんなことはない。今時、入館管理をしていない会社は、よほど規模の小さなところだけだろう。霞が関の官庁街も、入館は非常に煩雑な入館手続きが必要になった。コンプライアンスの強化というやつである。