まず前回のおさらいから。

 1957年(昭和32年)11月1日、官2民8の出資比率で、日本原子力発電株式会社が設立された。設立目的は、日本初の実用原子力発電所の建設と運用だった。最初の原子力発電所は、英国から導入するマグノックス炉の技術を使って建設されることになった。マグノックス炉の導入は、早期の実用炉運用に執念を燃やす正力松太郎が強引に事を進めた結果、決まった。正力の目標は、内閣総理大臣に就任し、日本の権力の頂点を極めることであり、彼にとって原子力は野望実現のための手段のはずだった。が、手段が目的化してしまい、結局彼は総理大臣になることはできなかった。

 マグノックス炉導入のために、官と民からの出資を集めて日本原子力発電株式会社という組織が作られ、茨城県・東海村への原子力発電所建設計画が動き出した。ここに、その後の日本の原子力政策の性格を決めるターニングポイントが存在した。日本原子力発電が官と民の双方から出資を受けたことである。

 官のみ、あるいは民のみの組織なら、意思決定手順は明確であり、課題に対して進む自由と退く自由の両方を確保できる。しかし、原子力発電所の建設を前提に官と民の双方から出資を集めた結果、進むことしかできない組織が出来上がってしまった。官は「原子力発電を推進するからわざわざ金を出す」ことになり、出資で原子力発電を実施する」という意志が固定化する。また、民は側からすると「やるということにして、官からも出資を仰ぐ」のだから、こちらも「退く」という選択肢はなくなる。構造的に退くという選択肢を失った組織は、無理も矛盾もはね飛ばして強引に進むことになったのである。