英国の原子力開発は、第二次世界大戦の初期から始まっている。大戦前、フランスではフレデリック・ジョリオ=キュリー(1900~1958)のグループが核分裂反応に関する先進的な研究を行っていた。ジョリオ=キュリーの妻、イレーヌ(1897~1956)もまた核物理学者で、有名な“キュリー夫人”ことマリー・キュリー(1867~1934)の娘だった。1940年にナチス・ドイツがフランスに侵攻すると、キュリーのグループのメンバーの一部は英国に逃れて、英国政府に協力して研究を継続する道を選んだ。

 フランス人研究者の協力を得て、英国はかなり早い時期から、原子力の用途として原子爆弾と発電の2つに絞り込んで研究を進めていた。大戦後の1945年10月には英国原子力公社(UKAEK)を設立し、まず原子爆弾、そして次に原子力発電の実現に向けて動き出した。原子炉の研究は、まず原子爆弾に使うプルトニウム239の生産炉として始まり、次いで発電用原子炉の開発へ進んだ。1947年から英国北西部のカンブリア州シースケールの街の郊外にウィンズケール原子力研究所の建設が始まった。

 英国は米国と異なり、初期の検討段階で、莫大な施設と電力を必要とするウラン濃縮を諦めた。従って、必然的に開発する原子炉はウラン235を0.7%しか含まない天然ウランを核燃料に使用するものとなった。

 最初にウィンズケールに建設された2基のプルトニウム生産炉は、米国がマンハッタン計画でワシントン州ハンフォードに建設したプルトニウム生産炉と同じ、天然ウランを核燃料に、黒鉛を減速材に使用していた。が、ウィンズケールはハンフォードと異なり、近くに川がなかった。ハンフォードの炉は熱を川に逃がしたが、水のないウィンズケールでは熱を空気中に放出するという方法をとった。この炉で生産したプルトニウムを使い、英国は原子爆弾を製造した。1952年10月3日、西オーストラリア・トリムイユ島の沖合いで、英国は初の核実験を実施した。フリゲート艦「HMSプリム」に搭載したプルトニウム爆縮型の原子爆弾「ハリケーン」は核爆発に成功。米国、ソ連に続いて英国は世界3番目の核兵器保有国となった。