ここで話を一度第16回で説明した、日本初の原子力関連予算が成立した1954年3月に戻そう。最初の予算で行われたのは、まず原子力関連情報の収集――海外への調査団の派遣と技術文書の購入、そして国としての原子力研究を推進する体制作りだった。
 “札束で頬をなぐられた”形となった日本学術会議は、第五福竜丸事件が世界を震撼させていた真っ最中の1954年(昭和29年)4月23日に、原子力研究の三原則を決議する。

     
  1. 原子力の研究、開発および利用の情報は完全に公開され、国民に周知されること。
  2. 原子力研究は民主的な運営によってなされ、能力あるすべての研究者の十分な協力を求めること。
  3. 原子力の研究と利用は、自主性ある運営のもとに行われるべきこと。

 公開、民主、自主の三原則と呼ばれるこの決議は、原子力研究に積極的だった4人の議員――中曽根康弘、前田正男、志村茂治、松前重義が賛同したこともあって、その後成立する原子力基本法の基本精神となった。
 同年5月11日には内閣に、体制作りの基礎固めを行うための原子力利用準備調査会を設置することが決まった。調査会では、放射性物質の取り扱い基準から、米国から濃縮ウランを入手するための手続きなどの検討が始まった。ところが準備調査会の会合で、そもそも原子力技術がどんなものかを具体的に知る者がいないという状況が露呈した。一刻も早く原子力技術の実際を知らねばならないということになった。
 この時期の日本政府の動きは非常に敏速だった。8月には各国日本大使館に科学アタッシェのポストが新設された。派遣されたアタッシェが各国政府と調査団受け入れの交渉を行い、同年12月25日から3カ月間、15名からなる日本政府の原子力調査団が世界12カ国を回り、各国の状況を調査してきた。1955年(昭和30年)5月、帰国した調査団は報告書を政府に提出した。報告書は5項目の勧告を行った。

  1. わが国に建設される最初の小型実験炉は天然ウラン重水型とし出力は1万kW程度とすべきこと
  2. 日米原子力研究協定を締結すること
  3. 原子力開発の統括機関を早急に整えること
  4. 原子力開発の実施機関を至急創設すること
  5. 放射線に対する安全対策を講すること