アイゼンハワー米大統領による「アトム・フォー・ピース」演説、昭和29年度予算における「札束で横面をたたいた」原子力研究予算の成立、相次ぐ米国の水爆実験と第五福竜丸事件――1953年から54年にかけての世界では、めまぐるしく原子力に関係する事件が起きていた。その中で、米国は強力に原子炉開発を推進していた。開発の中心になっていたのは海軍であり、目的は原子力潜水艦の実現だった。

 米海軍の動力用原子炉開発を主導したのは、ハイマン・G・リッコーヴァー(1900~1986)だった。彼は海軍兵学校出身の軍人で潜水艦勤務の経験があった。第二次世界大戦後の1946年、米海軍は原子力を船舶の動力に使用する可能性について検討を始めたが、その中でリッコーヴァーは原子力動力の潜水艦には大きな可能性があることに気がついた。

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米原子炉開発の中心人物だった、リッコーヴァー(Wikipediaより)。軍用原子力艦艇の実用化を飽くなき執念で推進した。
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 それまでの潜水艦は、ディーゼルエンジンを動力としていた。ディーゼルエンジンで発電機を回してバッテリーに蓄電し、潜航中はバッテリー駆動のモーターを使用する。バッテリーが尽きれば浮上して充電しなくてはならない。しかし、原子力を動力とする潜水艦を建造すればいつまでも潜航し続けることができる。それは敵に位置を知られることなく海中を移動し、必要とするタイミングで敵を攻撃可能ということだ。

 この考えに取り憑かれたリッコーヴァーは、その後30年以上にもわたって、米海軍の原子力開発の枢要を占め、あくなき執念で船舶用原子力動力の開発を推し進めた。