1953年12月8日、アイゼンハワー米大統領は、国連総会で行った演説において「アトム・フォー・ピース(pdfファイル:日本語訳と原文)」という考え方を打ち出した。原子力エネルギーを核爆弾という形で破壊のために使うのではなく、建設的に平和利用しようというものだ。演説中で平和利用の一形態として、原子力発電が挙げられていた。

 この時、敗戦の痛手から回復しようとしていた日本は、決定的に電気が不足していた。そして日本のリーダー層の中には、明治以来の「外国の力を使って貧しい日本を豊かにしていこう」という考え方が自然と復活してきていた。

 さて、ここで原子力発電に関わっていくことになるグループをざっと見ていこう。

引き裂かれていた科学者

 まず核物理学者たちがいる。日本では第二次世界大戦が始まる前から理化学研究所の仁科芳雄(1890~1951)などが電子や陽子を加速するサイクロトロンを開発。原子核に当てて反応を調べる核物理の実験を開始していた。同時にサイクロトロンで製造した放射性同位体を使って、生体内の物質の移動を調べるといった応用研究も始まった。

 仁科は、量子力学の巨人、ニールス・ボーア(1885~1962)の研究室に5年半も留学した経験があり、欧州の核物理学者と交流があった。オットー・ハーン(1879~1968)とリーゼ・マイトナー(1878~1968)が核分裂反応を発見した時も、すぐに情報を入手している。

 戦争中、日本では陸軍(ニ号研究)と海軍(F号研究)がそれぞれ別個に原子爆弾の研究を進めていた。米国が総力を挙げてマンハッタン計画を推進したのに対して、日本は組織縦割りという非合理なことをしていたわけである。結局、日本の原爆研究は敗戦まで基礎研究の域を出ることはなかった。仁科は戦争中は陸軍の「ニ号研究」に従事、広島に原爆が投下された際は2日後の8月8日に広島に入り、投下されたのが原子爆弾だと判断している。

 敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は核物理の実験を禁止した。仁科らの開発したサイクロトロンは東京湾に投棄されてしまった。その状況下で日本の核物理学者らは海外と連絡を取って情報を集め、まずは理論的な研究を再開した。昭和24年(1949年)には米国が、日本の研究者に対して実験に使う放射性同位体を供給するようになる。仁科の研究用サイクロトロンをGHQが破棄した事に対して、米国の研究者が政府に厳重に抗議した結果だった。日本の戦後の核物理実験は、研究者の国境を超えた連帯から出発したのである。同年には、湯川秀樹(1907~1981)が戦前に発表した中間子理論によりノーベル物理学賞を受賞した。この時期から、原子炉に関する情報が米国からの雑誌などで入るようになったようだ。