日本の敗戦と共に、朝鮮半島は北緯38度線を境に、北はソ連により、南は米国に占領された。その後、北は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、南は大韓民国として独立したが、1950年(昭和25年)6月25日、突如、北朝鮮軍が宣戦布告なしに38度線を突破して南側に侵攻した。北朝鮮の金日成主席が中国とソ連の事前了解を取って朝鮮半島の統一を目指したのである。朝鮮戦争の勃発だ。

 不意を突かれた韓国軍および駐留米軍は苦戦した。米国は国連軍を結成し、北朝鮮軍を押し返そうとしたが、敗北に敗北を重ね、9月には朝鮮半島南端の釜山付近に追い詰められた。そこで極東米国軍を管轄する、ダグラス・マッカーサー連合国軍総司令官は9月15日、38度線にほど近いソウル近郊、仁川の海岸に一気に7万人規模の軍隊を送り込む仁川上陸作戦を決行。同時にスレッジハンマー作戦と称する大規模な反攻作戦を展開した。今度は補給線が伸びきった北朝鮮軍が敗走する番で、9月末には38度線まで押し返された。

 韓国の李承晩大統領はこの反攻を「南北統一の好機」と見た。韓国軍はそのまま38度線を越境、10月9日には国連総会議決というお墨付きを得て、米軍主体の国連軍も38度線を越えた。北朝鮮軍は押されに押され、韓国軍の一部は中国との国境である鴨緑江にまで到達した。

 ここで、中国が参戦した。10月19日、ソ連が供与した最新兵器を装備した中国人民解放軍が鴨緑江を越えて朝鮮半島に侵攻した。中国は、戦死者をものともせず、人命をすり潰すようにして突き進む人海戦術で韓国軍と国連軍を圧倒、戦線は再度38度線まで押し戻された。一時はソウルを再度占領するほど中国軍が優勢だったが、朝鮮半島の厳しい冬が戦闘継続を阻み、そのまま戦線は膠着状態となった。マッカーサーは中国軍の補給基地がある中国領内を核攻撃するプランを持っていたが、「核を使えばソ連を刺激し、緊張が東欧にも及ぶ」と考えたトルーマン大統領は、1951年4月11日にマッカーサーを解任した。