文学者・批評家のハーバート・マーシャル・マクルーハンが、著書「グーテンベルクの銀河系」を出版したのは1962年だった(邦訳は1968年)。今から48年前のことだ。口伝から印刷物、さらに新しいメディアも含めて、コミュニケーションメディアが社会の中で総合に影響し合って「メディアの生態系」というべき状況を作り出す様を分析した本だった。
 同書の中で、マクルーハンは、大変に重要な指摘を行った。「メディアはメッセージである」ということだ。

 私たちは、何か「伝えるべき実体」があって、それを活字や朗読といったさまざまな伝達方法で伝えると思い込んでいる。「伝える内容」と「伝える方法」は別物と考えているわけだ。

 しかし、マクルーハンは「そうではない」と主張した。「伝える内容は、伝える方法で規定される」さらに踏み込むと「伝える内容は伝える方法で変化してしまう」あるいは「伝える内容と伝える方法は不可分で分離して考えることはできない」ということだ。

 例えば、詩で考えてみよう。マクルーハンの主張に従えば、手書き文字の詩と、活字できっちり印刷された詩、そして朗読された音声は、たとえ同じ詩であっても伝わるものが異なる。同じ手書きでも、鉛筆で書いたのか、それともボールペンで書いたのか、切り取ったカレンダーの裏に書いたのか、それともきれいに金箔を散らした色紙に書いたのかで意味合いが変わってくる。
 同様に、同じ詩の朗読であっても、それが古いSPレコードに記録されたパチパチという雑音込みのものなのか、それとも小指の先に乗るmicroSDカードに記録されたMP3音声ファイルなのかで、また意味が変わってくる。

 活字で印刷すれば、すぐに稚拙で無内容と分かる詩が、手書き墨文字で目の前にあると、あたかも深遠な人生の真理を語っているかのように読み手に迫ってくるというのも、マクルーハンの主張の例証に他ならない。