前回、「良い道具は、使用者に自分の能力が拡張される喜びを与え、また道具を自在に扱う喜びを得た者は、ますます道具にこだわる。」という話を書いた。

 とはいえ、良い道具だけをそろえても意味はない。良い道具を使いこなすことで使い手の能力が引き出され、同時に使い手が道具の良しあしが分かるようになっていくという循環が大事なのだ。
 例えば、ゴルフ初心者がやたらとグラブをそろえたものの、そろえただけで満足してしまって使わないというのは、使っていない時点で、良い道具の持ち主として失格である。良い道具を持つことは必要条件であり、その道具を使うことは十分条件なのだ。

 このように考えると、日常ひんぱんに使う道具こそ、良いものをそろえるべきだということが分かる。衣食住に使う道具などはまさにそうだ。服や靴、食器(そして多分食材も)、家や家具などは、収入が許す限り、けちけちするべきではないということになる。

 もっとも、このあたりは好みの問題もあるし、服飾に代表されるような美的感覚の問題もある。前回取り上げた自動車のように、機能を中心に考えていくわけにはいかない。もちろん、自動車だって機能一辺倒というわけではない。
 限られた収入の中での優先順位というものもあるから、一概に「何でもかんでも良いものをそろえて使え」と言い切れるわけではない、また、前回述べたように「良い道具は目的を絞っている」から、「良さ」ばかりを追求すると、道具ばかりが増えていくということにもなる。衣裳ばかりが増えて「衣装ダンスの肥やしとなる」というのは、かなりの頻度で日常経験することだ。

 一つだけはっきり言えるのは、「良い道具を手元に置いて使った経験がなければ、良い道具を見分ける能力は身に付かない」ということだろうか。

 そう考えていくと、日ごろ私たちが頻繁に使っている機械であるにもかかわらず、思い切り軽く見られ、結果として社会的な問題を巻き起こしている道具が存在する。

 それは、自転車だ。