「面白法人カヤックのいきかた」の連載は今回で111回目。これを記念して座談会を企画しました。本コラム筆者の柳澤大輔氏が日頃から尊敬し、ウェブ関連の仕事でコラボレートすることも多いウェブクリエイターのお二人――福田敏也氏(トリプルセブン・インタラクティブ代表取締役)、田中耕一郎氏(Projector代表)をお招きし、お二人の考える組織とクリエイターの関係について、お話をうかがいました。前編・後編の二部構成でお届けします。(編集部)

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●僕が会社を辞めたワケ
「自分が考えるネットクリエイティブの仕事の意味と、会社の中での位置づけにギャップを感じていた」(福田)

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柳澤 今回は、僕の尊敬するクリエイターのお二人に、「ウェブクリエイターの組織論」といったテーマでお話しいただければと思っています。お二人とも、大きな組織に所属した後、そこを辞めて独立した経歴をお持ちですね。そこで最初に、組織を辞めた経緯から、聞かせていただけますか。福田さん、どうでしょうか?

福田 僕は博報堂に入社してからずっとマス向けのCMを作っていたんですが、1995年に博報堂電脳体という新しい部隊に入ってから、ネットクリエイティブのほうに足場を完全に移しました。ネットクリエイティブは、いままでのマス広告とはまったく違う速度感と文化と流れを持つ世界でした。
 仕事自体が従来のマス広告の枠組みとは違うので、博報堂という大きな組織が長年培ってきた社内のルールや文化、評価の仕組みとは、どうしてもズレが出てくる。僕は博報堂アイスタジオという子会社の役員にもなって、それなりに面白い仕事の仕方もしていたんですが、やっぱり会社って、全体のルールで成り立つものじゃないですか。大きな会社であればあるほど、そのルールは簡単には変わらない。そのルールの下では、自分が考えるネットクリエイティブの仕事と、会社の中でのネット関連事業の位置づけとの間にはどうしてもギャップがあったんですね。

田中 福田さんがいた電脳体って、広告会社の中で、広告のサイエンスを考える部隊だったわけですよね?

福田 サイエンスというか、ネット広告のあり方を考えようという部隊でした。

柳澤 95年というと、ものすごく早い時期ですね。

田中 早いですよね。僕は、1997年にTYOという広告制作会社に入ったんですが、その時点でも、ネットとか全然やろうと思っていなかったもの。ネットのビジネス、特に広告のビジネスが何となく動き始めたのは、2002年頃からですよ。やっぱりブロードバンドが普及してから。ただ、それ以前から、広告のビジネスモデルって単なるマス広告から脱皮して、変わりつつあった。博報堂電脳体は、そういう世の中の動きをちゃんと意識して、「広告って何なの?」という根本的なところに考えをめぐらせている部隊だという印象が、僕にはありました。

福田 外から見ると、そう見えたかも知れませんね。ネット広告のあり方を考えるといっても、電脳体のボスはクリエイターだったし、面白くなければ嫌だという考え方でしたから。当時は、『社長失格』という本を書いた板倉雄一郎という人が、いち早くバナー広告のモデルを作っていましたから、その辺をマーケティング的に研究する道もあったと思うんです。でも、そこには行かなかった。
 何をしたかというと、まず徹底した資料収集です。ネットもそうですが、出版された本や細かい文献まで漁って、気になりそうなビジネスとか、気になりそうなサービスとか、気になりそうな人とかを、徹底的にリストアップしました。で、その資料をみんなで俯瞰してから、企画ブレストに入っていった。ネタブレストというか、何をするのか考えるのに半年くらいかけましたね。

柳澤 その結果「ペタろう」(編集部注:ネットワーク内のパソコン同士なら互いのデスクトップ上に伝言メモを貼ることができるソフトウエア)が生まれた?

福田 いや、最初は電子年賀状でした。「お年玉くじつき電子年賀状」。なぜ年賀状だったかというと、国民的な行事だから(笑)。電脳体では、とにかくウケることを考えさせられた。ウケるといっても、ネットの文脈じゃなくて、みんなにウケるものをというのが最初のお題でした。

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田中 電脳体のそういう志向は、いまから考えると、当たり前になっていますよね。コンテンツとしての広告を考えるという視点だったり、ネットを使って広告をサービス化していくことだったり。いまのトレンドを先取りしてますよ。

柳澤 とにかく面白いもの、ウケるものというふうに感覚的なところから入るって、ネット向きですよね。ターゲットはどうとか、市場規模はどうとかいうマーケティング的な発想とは関係なく、とにかく面白いからってスタートしたサービスがブレイクすることって結構ある。「ペタろう」なんかもそのまま継続して続けていれば、事業として成立したんじゃないですか?

福田 ただ、広告の人は、みんな飽きっぽいんですよ。スタート時にどんなに盛り上がっていても、運営フェーズに入るととたんにテンションが下がってくる。だんだん愛が薄れてきて、「作ったのはいいけど、これどうしようか?」ってなっちゃう(笑)。次の新しいことに、興味が移ってしまう。そのお祭り的なところが、広告現場の良さでもあるんですけどね。
 電脳体にはメンバーが5人いて、企画から事業設計、システム開発、広告設計、インターフェイスデザインからコンテンツ作り、スポンサーセールス、運用、ユーザー対応まで全部を5人だけでカバーしていた。でも、その組織の役割は2年で終わってしまったんですね。引き続きその事業のことを専任で考え育てつづける人がきちんとついていたら「ペタろう」なんか、もしかしたら商売として化けていたかも知れない。確実にオフィスの女の子にうけていたし、けっこうな数のユーザーがいましたからね。

田中 クリエイティブだけの問題ではなくて、営業が売ってくれないというのもあるでしょう? マス広告の場合は、1案件当たりの売上規模のスケール感があって、5000万円なら売るけれども、100万円なら売らないとか、そういう感覚なんですね。グーグルなんか、広告情報とユーザーの興味をマッチングさせることで、数百円単位でも商売できるシステムを作り出したわけでしょう? そういうロングテール的なところに、広告業界のビジネス感覚が届いていなかった。

福田 確かに、感覚的に理解してもらえないというのはキツかったですね。電子年賀状を作った頃でしたが、かつて一緒に仕事をしたことのある営業部長に廊下ですれ違って、言われたんです。「お前、いつまでオモチャ作ってるんだ?」って。ああ俺がやってることは、オモチャに見えるんだなあと思って、考え込みましたね。向こうは僕と一緒に仕事をしたいという意味で声をかけただけなんですが。
 ただ、自分が大切だと思ってやっていることが、会社の多くの人にはなかなか理解されなくてズレや溝が埋まらないなら、このまま会社にいるのは良くないなあ。もう自分の文脈でやるしかないかな。そう思ったことが辞めるきっかけになったことは確かです。