創業してから10年近く経っても、僕は「社長」と呼ばれることにどうも慣れないし、そう呼ばれるのが好きではありません。

 いや、違うな。そう呼ばれるのは悪い気はしないので、よくよく考えると、僕を「社長」と呼ぶ人があまり好きじゃないのかもしれません。

 たとえば、やってきた営業マンが「社長さん」「社長様」と呼ぶ。これが、どうにもうそ臭い。「社長さんいますか?」とかかってきた電話は、大体のところ胡散臭いと相場も決まっています。そう感じてしまうのは僕だけでしょうか。ステレオタイプでしょうか。どうしてもその言葉の響きの裏に、不自由さが潜んでいる気がしてしまうのです。

 そもそも、どんな人間であれ本質的には対等で、上も下もないのだろうと僕は思っています。確かに資本主義社会においては、勝ったり負けたりしますので、上下というものが存在します。でも、それは所詮ゲームみたいなものです。自分たちで決めたルールでゲームをして、その中で、勝ったり負けたりしているだけです。本質的な部分では、誰もが対等で、そして自由なのではないかと思うのです。

 でも世の中には、肩書きで人を判断する人が想像以上に多いようです。だから、肩書きによって、同じことを言っても受け止められ方が違ってしまうのです。「社長だから偉い」とか「社長だから深く考えた上でのことだろう」とか最初から、勝手に思い込んでいる人が多すぎます。そして、そういう人たちがいてくれるおかげで、存在している組織もあります。

 たとえば、時々社員が社長への愚痴や悪口ばかりで、誰も社長を尊敬してない(と感じる)組織があります。僕がもし、その会社の社員で、その会社の社長を尊敬することができなかったら、そこに在籍する意味がないと考えます。でもそういう会社が社会に存続し続ける(長期的には難しいのかもしれませんが)ことが可能なのは、肩書きだけで無条件に判断してしまう人間が意外と多いからではないかと思うのです。

 しかし、これって社会にとって良いことなのでしょうか?

 考え方によっては、存在しなくてもいいものが、その不自由な考え方によって無理矢理存在している、とすら言えませんか。そういう組織が、存在できず、自然と淘汰されていった方が楽しい世の中になるのではないでしょうか。そのためには、一人ひとりがもっともっと肩書きなんかを気にしないで本質を見つめて、どんどん自由になっていく必要があります。

 まず、「社長だから・・・」という肩書きに対する偏見を、取り払いましょう。社長だってひとりの人間です。意外と何も考えてない可能性もあります。

 その当たり前の事実に、一人ひとりが気付く必要があります。気がつくというより、想像力を働かせるといった表現が適切でしょうか。自分が相手の立場になったとしたら、こう思うはず、ということを想像してみる。その想像はだいたい当たっています。その想像力が自分に足りないと自覚している人は、だったら、せめてコミュニケーションをがんがんとっていけばいいと思います。そうすることで想像しやすくなる。

 そうしていけば、社長も意外とたいしたことないなとわかるはずです。

 そんな風に考えているせいか、カヤックでは誰も僕のことを社長と呼びませんし、みんな新入社員であっても「やなさん」と呼ぶ状態に自然になりました。

 そして、当然、社内には部長や課長などの呼称が一切存在しません。

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