このニュースには驚いた。

 ナクソス・レーベルからグレン・グールドのピアノによるバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1955年録音)のCDがリリースされた。もともとは米コロムビア・レコード(現米ソニーBMG・ミュージックエンタテインメント)から発売された、グレン・グールドのあまりにも有名なデビュー・アルバムである。伝説のはじまりともいえるこの録音の価値は時を経てもまったく色褪せていない。LP時代からCD時代にかけて、繰り返し再発売され、そのたびに売れ続けた。ワタシだって、あらゆるバッハの録音から3枚を選べといわれたら、きっとこの録音を挙げる。いや、もしかしたらあらゆるクラシックの録音から3枚を選べといわれても、これを挙げてしまうかもしれない。

 が、今はもう2007年だ。芸術の価値はなにひとつ失われていないが、著作隣接権は切れた。

 著作権と著作隣接権はよく混同される。前述の録音で言えば作曲家のバッハに帰属するのが著作権。バッハは18世紀に没しているので、著作権はとっくに切れている。これに対して実演家(この場合ならグールド)やレコード制作者(ソニーBMG)が持つのが著作隣接権。日本国内では、レコードの場合は原則として「発行した年の翌年から50年後まで」が保護期間とされる。

 そしてこの名盤がナクソスからリリースされた。同レーベルは定額制のストリーミング型音楽配信「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」を提供している。グールドの「ゴルトベルク変奏曲」はこのライブラリーにも収められ、ネットで配信されている。

 長らく「グレン・グールド=コロムビア/ソニーのアーティスト」という図式に慣れ親しんでいた者には、これは大変新鮮な光景だ。なるほど、権利が切れるというのは、こういうことなのか。これまでもグレン・グールドより古い録音はいろいろな形で流通していたけど、録音の古さゆえに一部の好事家のためのものという印象があった。でもグールドにまで「手が届いた」ということは、なにか世界が変わったという実感がある。

 権利が消えて公衆の財産となったものは、だれもが自由に扱えるということになる。クラシック音楽にも「青空文庫」的な音源の無料配信が広がるのかもしれない(というかもう始まっている)。

 そしてこの「50年」という保護期間の絶妙さを感じずにはいられない。1954年までは事実上モノラル録音しか残っていないが、1950年代後半からステレオ録音が商業レベルで開始し、以後クラシックのレコーディングの黄金時代がスタートする。つまり、これから続々とステレオ録音の著作隣接権も消滅しはじめる。たまたまインターネットによる音楽配信の広がりとステレオ録音の著作隣接権の消滅のタイミングがうまく合致してくれたおかげで、わたしたちはクラシックの黄金時代を「権利切れ」という形によって50年遅れで追体験できることになりそうだ。これって天の配剤かも。

 もっとも喜んでばかりいていいのかどうか。この50年の保護期間がこれでいいのかという議論もあるだろう。さらに「きわめて優れた録音がすでに権利の切れた状態で流通する」という近未来の状況が、どんな変化を音楽界に起こすのかが気になる。

 右手でガッツポーズをとりながら熱狂的に歓迎しつつも、左手で顎の下をさすりながら「これで大丈夫なんだろか」と軽く悩む。

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