パソコン向けソフト登場:小さなメモリー空間でひと苦労

写真2-2●アクセスの鎌田富久副社長
写真2-3●アライドテレシスの高木弘幸社長と同社が開発したLANボード
図2-4●一筋縄ではいかなかったTCP/IPスタックのパソコンへの移植
当時主流だったパソコンはNECのPC-9800シリーズ。OSはMS-DOSである。TCP/IPスタックを常駐させた上で一太郎を使えるようにするには,約500Kバイトのメモリーを空けておかなければならなかった。

 80年代半ばまで,TCP/IPはUNIXマシンで動くプロトコルとして知られていた。パソコン・ユーザーには無縁の物だった。

 当時のパソコンはわずか約1Mバイトのメモリーしか搭載しておらず,当時の主流OSだったMS-DOSが利用する領域を差し引くと,ユーザーが使えるのは約550Kバイトしかなかった。しかも,当時のパソコンOSはメーカーごとに仕様が異なっていたので,米国製のパソコン用ソフトをそのまま使えなかった。

 このような状況で,TCP/IPスタックの開発にゼロから取り組んだ技術者がいる。アクセスの鎌田富久だ(写真2-2)。当時鎌田は,組み込み機器向けのTCP/IPスタックの開発を手がけていた。組み込み機器用ソフトの条件はコード・サイズが小さいこと。UNIX用のTCP/IPスタックは手に入ったが,参考にならない。プログラムの書き方が冗長で,サイズが大きかったからだ。プロトコル仕様を解析し,ゼロからコードをおこすしかない。

 だが,TCP/IPの参考書はない。そこで,米国防総省に頼んでRFCなどのTCP/IP関連資料を郵送で取り寄せた。3~4人の専門チームを結成し,到着した資料をむさぼり読む。約半年かけてスタックを作った。86年のことだ。そののちパソコン向けの開発に着手する。89年,当時のパソコンの主流だったPC-9800シリーズ向けのTCP/IPスタックが完成した。

LANボードにプログラムを逃がす

 パソコンが一般的に使われるようになった80年代後半は,アプリケーションがメモリーを大量に消費する問題が顕著になる。当時,圧倒的なシェアを握っていた日本語ワープロ「一太郎」は,500Kバイトものメモリーを占有するように作られていた。TCP/IPスタックは立ち上げ時に読み込まれるが,メモリーを使いすぎるとあとから一太郎を起動できなくなってしまう。このため,国内技術者はTCP/IPスタックを50Kバイト程度にまで小さくする必要に迫られた。

 当時,新会社アライドテレシスの立ち上げに参加した高木弘幸はこの問題に直面していた(写真2-3[拡大表示])。高木は,米FTPソフトウエアのTCP/IPスタックをPC-9800シリーズに移植する技術チームに加わっていた。移植対象のTCP/IPスタックは100Kバイトもある。半分に圧縮するのは難しい。

 開発チームは,大手LANボード・メーカーのアンガマン・バスの実装方式にヒントを得た。LANボード上にもCPUとメモリーを搭載するという方法だ(図2-4[拡大表示])。当時アンガマン・バスは,TCP/IPとは別のプロトコルでこの手法を使っていた。開発チームは日米に分かれて作業を続けた。LANボードとTCP/IPスタックが完成したのは88年10月のことだった。

(敬称略)