日米IP接続への挑戦:先駆けとなったNTT研究所

 JUNETがCSNETと接続したことは,ほかの国内組織にCSNETとの接続を促すきっかけとなった。その中で,より高度なCSNET接続に挑戦した組織がNTT*である。

 NTTは最初,CSNETとUUCPで接続したがそれだけでは満足しなかった。TCP/IP接続したかったのだ。80年代半ばのARPANETやCSNETは,TCP/IPでコンピュータ同士が直接通信できる環境が整いつつあり,UUCP接続から移行する組織が出始めたところだった。

 IP接続の陣頭指揮を執ったのは,ちょうどスタンフォード大から帰国したばかりだった後藤滋樹。部下の村上健一郎と一緒に準備を始めた。

 まず手始めにルーターを取り寄せた。発注したのは,米シスコシステムズ製のルーター。日本に持ち込まれた最初のシスコ・ルーターである。シスコを選んだのは,「ルーター・ソフトのできが他社より良かったから。でもハードは相当ひどかった」(村上)。

 次にグローバルIPアドレスの取得。実はすでに社内実験用にSRI(スタンフォード研究所)からアドレス・ブロック(連続するIPアドレス群)を割り当ててもらっていた*。これを使えばいい。

日米でデバッグを繰り返す

 最後は国際回線との接続だ。社内事情から*国際専用線を使えなかったので,回線はX.25 パケット交換網*と呼ぶ公衆サービスにした。

 ただし,ここから苦労が始まった。X.25パケット交換サービスの仕様が,日本と米国で微妙に違っていたためだ。やむを得ず村上は,ルーターOSの修正作業を開始する。シスコとCSNETのエンジニアに応援を依頼し,米国版X.25と日本版X.25で相互接続できるように,ルーターOSを書き換えてもらうことにした。

 修正は実験結果を反映しながら進めなければならないので時間がかかった。まず,シスコが日本仕様に書き換えたルーターOSを送信してもらう。受け取ると,すぐさまルーターにインストールし,CSNET側と歩調を合わせて起動する。通信を開始し,パケット・アナライザ*を使って通信状態を逐一チェックする。最後に,通信に失敗した原因を解析し,その結果をシスコへフィード・バックする。こんな作業が,数カ月も続いた。

図2-3●88年8月2日,IPパケットが太平洋を初めて横断した
NTTが米スタンフォード大にX.25パケット交換網を介して接続したのが,日米間IP接続の始まり。当時はTCP/IPの実装が不安定だったため,米国の担当者の協力を得ながら,開通までに数カ月かかったという。

 デバッグが完了したのは88年8月2日(図2-3[拡大表示])。もちろん実験中には何度もTCP/IPでテスト通信しているが,IPパケットが初めて太平洋を越えた記念すべき日は8月2日と言っていいだろう。

月300万円の国際電話代に大慌て

 村上が日米間のTCP/IP接続実験に取り組んでいたころ,JUNETで大問題が起こっていた。国際電話の月額料金が300万円を越えてしまったのだ。それまでの平均は月30万円程度。約10倍に跳ね上がったことになる。

 原因はすぐに見つかった。巨大な添付ファイル付きメールが,あて先アドレスの書き方が間違っていたため,日米間を何度も往復していたのだ。

 この事件を契機に,JUNETを運営していた石田や村井は専用線の導入に本腰を入れ始める。JUNETの通信量も右肩上がりに増え始めていた。専用線ならトラフィックが増えても月額料金は変わらない。問題は,専用線とルーターの費用をどうするか。大学の研究予算で賄える額ではない。

 ここで村井が企業との共同研究を思いつく。全国規模のTCP/IPネットワークを構築するのでその上でコンピュータの分散環境を研究しませんか,と企業に話を持ち込んだのである。構築費用を共同研究費という形で助成してもらおうという狙いだった。

 この構想に企業も賛同し,なんとか運営費をかき集めることができた。こうして88年1月,東大と慶応大,東大と東工大をそれぞれ64kビット/秒の高速ディジタル専用線で接続。国内初の専用線ベースのTCP/IPネットワークが誕生した。村井は,共同研究をWIDE(ワイド)プロジェクト*,ネットワークをWIDEインターネットと名付けた。

 さらに幸運なことに,高額な日米専用線も米ハワイ大学が進めていたPACCOM(パッコム)*プロジェクトとの共同研究予算で賄えることになった。こうして89年9月,WIDEインターネットは日米間のIP接続を開始する。