1980年代前半,全米各地および世界各国から米国の高等研究機関に留学した研究者はARPANETの洗礼を受けた。電子メールや掲示板のとりこになった彼らは,やがて自らが“インターネットの伝道師”となってTCP/IPの導入へまい進することになる。最初こそ反感を感じていた村井であるが,そののちもっとも精力的な伝道師となる。
ただし導入活動は挑戦の連続だった。これまで経験したことのないハードルがいくつもあったからだ。
だが,伝道師たちの努力は実る。米国の限られた研究機関でのみ使われていたTCP/IPは,80年代の終わりには世界中へ広まる。それもオフィスのパソコンでTCP/IPを使う時代がやってくるのである(表2-1[拡大表示])。
JUNET誕生:米国とつないだ初のネット |
インターネットを世界へ広げる基盤となったのは,CSNET*(シーエスネット)と呼ばれる学術ネットワークである。このネットは,全米科学財団*が81年に構築した。
CSNETはARPANETと違い,そこに接続するための条件が緩かった。ARPANETは,米国防総省が構築した関係上,米国政府から得た資金で軍事関連技術を研究する組織だけを対象としていた。一方のCSNETは,コンピュータ科学や工学を研究する組織なら,年会費 5000 ドル*程度を支払えば米国外の組織でも接続できた。
CSNETへの接続拠点は毎年増加した。CSNETは,89年にBITNET*(ビットネット)に吸収されて運用を停止するが,その時点では12カ国約170組織がつなぎ込む国際ネットに成長していた(図2-1[拡大表示])。
就職先へデータを送りたい
日本のネットで,最初にCSNETとつながったのはJUNET(ジェーユーネット)である。85年1月に,USENET*(ユーズネット)経由でCSNETと接続し,86年1月にCSNETと直通回線で結ばれた。
JUNETは,先ほど登場した村井が構築した大学間ネット。日本で初めて電子メールの交換を目的に作られたもので,ここから日本のインターネットの歴史が始まる。
JUNET発足のきっかけは,村井の就職にある。84年4月,村井は慶応大の博士課程を終え,東工大の助手になった。研究データを東工大に持っていきたかったが,データ量が膨大だったので,磁気テープにコピーして運ぶのは骨が折れる。何かいい方法はないだろうか。
このとき村井は,慶応大のコンピュータと東工大のコンピュータを電話回線でつないでデータ送信することを思いつく。幸いどちらのマシンもUNIXを搭載したミニコン*だったので,UNIX用の簡易ファイル転送プログラム「UUCP」が使えた。早速モデムを調達し,UUCPを動かしてみる。電話回線経由のUUCP通信は誰も試みたことのないチャレンジだった。
この挑戦を聞きつけて,強く関心を持った研究者がいた。東大の大型計算機センターにいた石田晴久である。当時石田は,国立大学の大型コンピュータを結ぶ実験に取り組んでいたが,今ひとつ乗り気になれないでいた。「大学間ネットの目的はリソースを共有すること。だけど僕は電子メールをやりたかった」(石田)。
こうして84年10月,東工大,慶応大に東大を加えた3角形のUUCPネットワークが完成する(図2-2[拡大表示])。石田は,以前から温めていた名称「JUNET」をこのネットに名付けることにした。
UUCPサービスは通信事業?
構築そのものは難しくなかった。だが,運用を始めるにあたり,石田と村井は一つの懸念を払しょくできないでいた。それは,郵政省がJUNETを通信サービスと見なすのではないかというもの。もし通信サービスということになれば,通信事業者の免許を取得しなければならない。JUNETが生まれた84年は通信自由化の1年前。電電公社(現NTT)以外の事業者は通信サービスを提供できなかった。
石田と村井は郵政省に対し,“大学がUUCPネットワークを運用するのは通信事業者にあたるかどうか”を聞いてみた。ところが,郵政省側の態度もはっきりしない。前例がない上,さまざまな解釈が成り立つとして,首を傾げるばかりだったという。それでもなんとか,“研究用ならOK”という非公式見解を引き出せた。
こうして誕生したJUNETは,国内外へ電子メールが送れるとあってすぐに評判を生み,最終的*に500近い全国の組織を結ぶ巨大ネットに成長する。