「香り」「手触り」「味」や喜怒哀楽を,ネット越しに伝えられる世界が現実味を帯びてきた。「五感通信」に向けた技術を実装した製品やサービスが登場してきたからだ。ユーザーのストレスを検知してリラックスさせられそうな香りを発生させるシステム,メール送信者の感情を受信者に伝えられるWebメール・サービスなど,試みはいくつかある。
(実森 仁志=hjitsumo@nikkeibp.co.jp)

 「新素材で作ったシャツのきめ細かな肌触りを,ネット経由で購入する顧客にも実感してもらいたい」「顧客の体調や気分に合わせて,最適な香りをインタラクティブに提供したい」――。

 このような「香り」「手触り」「味」といった人のさまざまな感覚に訴える情報をネット越しに伝える「五感通信 」が,現実のものになろうとしている(図1[拡大表示])。各種の刺激をディジタル化する技術や,それを再現して疑似体験できるようにする技術の開発が急速に進んでいるからだ。要素技術を専用ソフトや専用装置に実装し,ビジネスに活用しようという企業も登場した(表1[拡大表示])。従来,五感のうち,味覚・嗅覚(きゅうかく)・触覚については,仮想現実(バーチャル・リアリティ)などの学術・研究テーマの域を出なかった。製品やサービスの登場で,Webサイトなどが新手のサービスを提供できる芽が出てきた。

図1●人間の感覚や感情をネット経由で伝えられるようになる
今後は,嗅覚,触覚,感情などに訴えられるような世界が実現する可能性がある。そのための要素技術は,すでに実用化が間近だ。
 
表1●感情や感覚などをネット経由で伝送できるようにするための取り組みの例

 例えば,ベンチャ企業のピクセンは,香りをディジタル化して伝送する構想「S-PEG」を考案。2003年4月,ディジタル・データから香りを再現できる装置を製品化し,企業向けに発売した。

 東京大学は,「皮膚感覚ディスプレイ」と呼ぶ装置を開発した。画面に表示した写真を指でなぞることで手触りを感じることができる装置で,すでにプロトタイプが完成。2006年の実用化を目指している。

 アンリツと九州大学の研究チームが設立したインテリジェントセンサーテクノロジーは,味の識別装置を開発。すでに製品として販売している。人間が舌で味を感じるメカニズムを解析して,これと同じような仕組みをシステムに実装し,味をディジタル化できるようにした。

 喜怒哀楽などの感情の伝達を目指す例もある。日本IBMは,早ければ5月中にも,メール送信者の感情をイメージとして受信者に伝えられるようなWebメール・サービスを始める。専用のメール・ソフトが自動的に感情を読み取り,それを抽象化したアニメーションをメッセージ画面の背景に組み込む。

 五感通信には,今後のインターネット社会を大きく変える可能性がある。さまざまな情報を,よりリアルに,より効果的に伝えられるようになるためである。例えば,冒頭に紹介したような,肌触りや香りをネット越しに伝える新手のサービスが可能になる。自宅にいながら遠隔地の医者の触診を受けられるようにする,視聴覚障害者のために火事などの非常事態を香りで伝える,といった取り組みにもつながる。実際,視聴覚障害者向けの通知に香りを使う試みは,現実の社会での実施例がある。

リラックスさせる香りを送る

 それぞれの取り組みを,もう少し詳しく見てみよう。

写真1●ユーザーのストレスを自動検知して香りを発生させる製品
ストレス状況を監視する専用マウスと,香り成分を噴射するスプレーを組み合わせて実現。ピクセンが企業向けに販売する。

 S-PEGを考案したピクセンは,脈拍や皮膚の電気伝導率などのセンサーを内蔵したマウスを使ってパソコンを操作するユーザーのストレスを自動検知し,リラックスさせる香りなどを生成するシステムを製品化した(写真1[拡大表示])。顧客満足度を高めたいホテルや,香水メーカーなどの新規サービスでの採用を見込む。

 厳密には,製品に実装したのは,あらかじめ芳香生成装置に組み込んだスプレーから,1つの香りを発生させる機能だけ。香り情報をネットワーク経由で伝送する仕組みは製品には実装していない。だが,香りを再生する芳香生成装置の基礎的な仕組みは完成した。

 香りの情報を伝送する仕組みも,プロトタイプを開発済みだ。サーバーからユーザーのパソコンに香り情報をダウンロードすると,パソコンに接続された芳香生成装置が香りを合成して噴射するというシステムである。今後は視覚でいう「三原色」や「色相/明度/彩度」のような基礎的な香り情報から任意の香りを作れるようにする。

ミクロン単位のザラツキ感を再現

 東京大学 工学系研究科 精密機械工学専攻の樋口・鳥居・山本研究室では,素材表面の手触りを再現する皮膚感覚ディスプレイを開発。新エネルギー・産業技術総合開発機構の「産業技術研究助成事業」に採用されており,3年以内にビジネスに結び付けたいとする。

 皮膚感覚ディスプレイでの触感の再現には,スダレ状にした薄型電極と,触感を指に伝えるための薄膜を使う。両者の間で発生する静電気力を利用して,物体表面の手触りを指に伝える。電極ごとに流す電圧を微妙に調整することで静電気力が変化。ミクロン単位の凹凸感まで表現できる。

写真2●画面表示と連携して触感を再現する皮膚感覚ディスプレイ
モニターに貼り付けた薄型電極と,指に巻いた薄膜との間で発生する静電気力を利用し,物体表面のザラツキ感などを再現する。東京大学が開発した。

 ただ,リアルな触感を再現するには,「単にきめ細かく凹凸感を表現するだけでは不十分」(東京大学 工学系研究科 精密機械工学専攻で講師の山本 晃生氏)。対象物が違うと,触ったときの温度の感覚が異なるからだ。例えば,金属と木材では,触れた瞬間に感じる温度や,時間の経過に伴う温度の変化の仕方が異なる。気温やユーザーの体温の影響も受ける。そこで同研究室では,対象物の温感を再現する仕組みも研究中。温度調整しやすいペルチェ素子を利用する。皮膚感覚ディスプレイと組み合わせて使えば,よりリアルに触感を再現できる可能性がある。

 これらの仕組みは,いずれも構造がシンプルなため,さまざまな装置と組み合わせやすいという利点がある。例えば皮膚感覚ディスプレイの場合も,透明な電極を通常の視覚用モニターに張り付けただけ。触感データと関連付けた写真などを画面に表示し,薄膜を指に巻いてなぞれば,手触りが再現される(写真2[拡大表示])。

メール送信者の感情をアニメで

 日本IBMは,電子メールの送信者の感情を伝えてくれる「感性メール」サービスを始める。2003年1~3月の試験提供で反響が大きかったため,機能強化して正式サービスに踏み切った。

 感性メールの実体は,Flashベースのユーザー・インタフェースを使うWebメール・システム。送信者がメッセージ中で入力した言葉や,文字の入力スピードなどをもとに,Flashアプリケーションが送信者の感情を自動的に推測。その感情を抽象的に表現したアニメーションを,受信者が見るメールの背景に加えてくれる。例えば,「うれしい」といった楽しげな文面のメールを送ると,大きな花びらがフワフワと舞う。「怒っている」といった文面のメールを送ったときには,激しい吹雪が表示される――といったイメージになる。

 5月中に開始する正式サービスでは,受信者側の心理やイメージを反映できるようになる予定だ。例えば,同じように花びらが舞っていても,人や心理状態によって「楽しげ」と感じることもあれば,「もの悲しい」と感じることもある。こうした変化を吸収できるような仕掛けを設ける。具体的には,受信したメールを開くときに受信者に質問を提示し,その返答に応じて表示内容が切り替わる仕掛けになっているという。