1996年1月,私はYahoo!創業者で,台湾生まれのカリフォルニア・ボーイ,Jerry Yangと日本の土を踏んだ。目的は,Yahoo! Japanを立ち上げるためのパートナー選びである。当時のYahoo!は,ディレクトリ・サービスで有名になっていたものの,日本の大手企業がどれくらい興味を持ってくれるかは未知数だった。広告代理店や大手メーカー,ISPなどとのミーティングを8件アレンジした私は,Yahoo! Japanの成功は,ミーティングのプレゼンテーションと交渉にかかっていると確信していた。

 それは,松下電器産業の幹部とのミーティングでのこと。既に検索エンジンを10年前に開発していたという話を聞いたときに,Jerryの目の色が変わる。「おもしろい。おもしろい。ねえ,興味があるよね?」。子どものように私に問いかける。私たちは,さっそく翌日の予定をキャンセルして,松下電器の開発部門を訪ねることにした。数時間にわたるエンジニアとのミーティングでJerryは,その検索エンジンを採用することに問題がないと判断した。Yahoo! Japanが立ち上がったのは,それからたった数カ月後のことである。

 日本市場における当時のライバル企業は,検索エンジンの開発から始めてサービス開始まで約1年を要した。立ち上がりのスピードは,Yahoo! Japan成功の最大の要因だったと思う。そして成功に導いたのは,Jerryという生粋のエンジニアがもつ,まれに見るビジネスセンスのおかげだった。

 米Stanford大学の電気工学部の博士課程に在籍していたJerry YangとDavid Filoが,自分たちが使っていたワークステーション「Akebono」と「Konishiki」に「Jerry's Guide to the World Wide Web」と称するWebのディレクトリを作り始めたのは1994年2月のこと。起業を意識することなく,学生エンジニアが始めた無料サービスだった。しかし,あまりの人気にビジネス・チャンスを見いだした2人は,翌年3月に会社を設立。米Sequoia Capital社というシリコンバレーで最も優良なベンチャー・キャピタルから200万ドルの投資を受けた。

Yahoo!創設者の2人が選んだ別々の道

 優良ベンチャー・キャピタルから投資を受けるということは,若手創業者が経営トップから外れることと実は同義である。CEOハンティングが始まり,Stanford大学の先輩で米Motolora社にいたTim Koogleを採用する。この時点で,創業者たちは自分が作った会社で自らの新たなキャリアを選択しなければならない。Jerryが来日したのは,そんな選択を迫られていたころだった。しかし彼は来日のあいだ,いかにも楽しそうだった。

 「あなた学校どうするの?」「I love my school. I love my study. But, I am so excited to pursue this business. This is incredible!(学校も勉強も面白いけど,今は,このビジネスがやりたい。これはすごいんだ!)。Jerryは興奮してビジネスへの情熱を語った。Jerry Yangは今,Chief YahooとしてCEOに直接レポートしてビジネス戦略を練っている。

 エンジニアには,ビジネスが苦手という人が多い。しかし,極めて優れたビジネスセンスを持つ人だっている。Jerryはそのタイプである。彼は積極的だ。決断が早い。優先順位とスピードの重要性を認識している。しかも,威圧的ではない。そこに初めて座ったのに,あたかもずっと前からいるような感じで安心感を与える。

 過密なスケジュールを2人でこなしながら,「IPO(新規株式公開)はいつか?」とたずねると,「この足で,ニューヨークに向かう。投資銀行を訪ねるのは初めてなんだ」と恥ずかしそうに答えた。まさか,その半年後にIPOが実現するとは思わなかった。投資銀行でのミーティングには立ち会っていないが,きっとJerryは,投資銀行の人を彼のファンにしてしまったに違いない。

 一方David Filoは,Yahoo!のグローバル・ネットワークを支えるキー・テクノロジストとして技術をまっとうする道を選んだ。David Filoは,Jerryと全く違う技術屋のにおいがする人だ。同じ大学の同じ学部出身,共同でYahoo!を設立した2人が,一人はビジネスの道を,ひとりは技術を極める道を選んだのだ。どちらがいいというものではない。私には,2人のキャリアの選択は潔いほど正しいものに思える。

 本コラムの第1回で,私のビジネスパートナだったエンジニア,Joe Judgeのことを書いた。Joeは「エンジニアは,40歳になれば20代のエンジニアにおびえるんだ。自分が使い古されるのが怖いなんて,こんなのキャリアじゃないよ!」と叫んでいた。今はニュージャージーで教鞭をとるJoeに,私は今でも言いたいことがある。「Joe,エンジニアの未来は明るい。いつも自分が選択すれば…」。

 頑張れエンジニア!