トレードオフは人間が判断

 感覚に裏打ちされた情報の数値化ばかりではなく,トレードオフが発生する状況での決断もコンピュータには簡単ではない。目的が一つなら,その目的を最大限に実現できるような計算結果を求めればよい。しかし,目的が複数あり,それぞれが矛盾した側面を持つ場合には,すべてを同時に最適にはできない。そこで落としどころを考える。とても人間的な判断だ。

 多目的問題の一例が,環境に配慮した企業行動である。「最大の利潤を追求することと,環境に配慮することは,同時には達成できない。このような複数の目的があると,どこかで人間が判断しないと結論を出せない」(広島大学 大学院 工学研究科 複雑システム工学専攻 教授の坂和正敏氏)。

“劣っていない解”が苦手

 コンピュータが苦手とする感覚に基づく判断や,トレードオフの関係を持つ問題に共通する特性は,目的を満たす唯一の有効解が存在しないことである。より適切な解は存在するかもしれないが,そもそも「最適」と呼べる解はないかもしれない。最適解があるとしても,組み合わせの数が膨大で,有効時間内には見つけられないこともあるだろう(6月8日掲載『組み合わせ最適化問題にも“やわらかい”計算が有効』を参照)。

 このような問題に直面しても,人間は「無限にある解の中から,人間の意志で解を決定する」(広島大学の坂和教授)。解が最適であることは保証できなくても,目的を満たす解はあるからだ。これを「非劣解」という。その解は最適ではないかもしれない。「まあまあ」のレベルだったり,「何とか我慢できる」程度だったりと,解の適切さも問題によってさまざまだろう。人間は,問題の難しさや複雑さなども考え合わせて,受け入れられる水準,すなわち「いい加減」に達している解を現実的に選び出す。

非劣解を求める計算原理

 つまり非劣解を求める問題をコンピュータは苦手としている。「問題が多目的になると,数学から離れてしまい,解が無限に考えられるようになってしまう」(広島大学の坂和教授)。数学的に問題をモデル化できれば,それをコンピュータのプログラムに変換できる。しかし,非劣解を考えなければならない多目的問題は,数理モデルを作りにくい*2

 無限にある解の中で意思決定するには,どうしても人間の判断が入ってくる。コンピュータが真正面から非劣解に向き合おうとすると,多目的問題を扱える新しい計算パラダイムが必要になる。

図4●人間らしさへのアプローチとなる技術
ファジィやニューラル・ネットワーク,遺伝的アルゴリズム,カオスは,人間の日常的な思考,あるいは自然界に存在する現象を利用して,コンピュータに人間的な「いい加減」を持たせることができる技術である。こうした技術を応用することにより,コンピュータが今よりも人間らしく考え,問題を解決できるようになる可能性を持つ。

 その可能性を持つものとして,かつて期待と注目を集めたのがファジィやニューラル・ネットワーク,遺伝的アルゴリズム,カオスといった理論である(図4[拡大表示])。「1970年代に盛り上がったAI(Artificial Intelligence)が80年代に入って力を失うのと入れ替わりに,こうした考え方が浮上してきた」(早稲田大学 理工学部 応用物理学科 教授の橋本周司氏)。いずれも,人間的な判断や学習のメカニズム,自然界に見られる現象などを計算原理に使うことで,従来のコンピュータが苦手としていた問題の解決を図る。

 ファジィは比較的名が通った存在だろう。人間の言葉が含むあいまいさを記号化する手法と言える。もともとあいまいなものを正確に記述するのは難しい。ファジィはあいまいさとうまく折り合いをつけて,これを記号化する。

 ニューラル・ネットワークは,神経回路のメカニズムを模倣している。これにより,人間が新しい運動や言葉を感覚的に獲得し,知識を蓄えていくのと同じような学習能力をコンピュータに備えさせる。

 遺伝的アルゴリズムは,生物が遺伝子の交配を繰り返し,時には突然変異を起こしながら,種として進化を遂げてきたメカニズムを利用し,最適化問題の解決を図ろうというものだ。どうなるのが最適なのかが分からない問題に対して,遺伝子の選択淘汰の仕組みを利用して,より適切な解を効率的に探していく。

 自然現象に見られる,一見すると非線形で複雑なふるまいの中に,実はある規則性を内包しているようなものがカオスである。カオス状態からは内在する規則を導けない。逆に規則性が分かっても,どのようなふるまいをするか予想できない。こうしたカオスの特性を利用し,パターン認識やセキュリティへの応用が考えられている。

“死んだ”と見るのはまだ早い

 これらが注目を集めたのは1980年代後半から1990年代初頭だ。一度は注目されたものの,未来技術としては表舞台から消え去った。特に,ファジィについては家電などで大きく宣伝されたことが仇となり,「もはや死んだ技術である」と評する向きも少なくない。ファジィとニューラル・ネットワーク,遺伝的アルゴリズムは一部で実用化され,定着しているが,ごく限られた領域に過ぎない。当初の期待ほどに実用が進まなかったのは,結局は「研究領域から,使ってみようと思えるような成果が上がってきていない」(東芝 研究開発センター ヒューマンセントリックラボラトリー 研究主幹の松日楽(まつひら)信人氏)ことに尽きる。

 しかし,現状だけを見て「死んだ」と決めつけるのは早計だろう。コンピュータは,数学的にモデル化された問題でないと処理できない。言うなれば,数理モデルに閉じた世界でしか生きていけない。そこから飛び出していこうとするなら,非劣解を求める能力が必要になるからだ。その意味では,「死んだ」のではなく,「まだ大きな鉱脈を見つけていない」のかもしれない。

(仙石 誠)