この第1回のJavaOneで,私は「Java技術を追いかけるべきである」という結論を得た。これは直観で,理屈ではなかった。

 直観を正確に理論付けることは難しいが,あえて説明すればこうなる。

 まず,Sunが示したJava技術の方向性が予想以上に意欲的だった。Webアプリケーション構築技術であるServletやデータベースを操作するためのJDBC(Java Database Connectivity)のコンセプトはこの時点で既に出ており,サーバーサイドJavaの可能性も示されていた。JavaOS(Java実行に特化したOSで,OS機能の大部分はJavaで記述してある)や,Javaチップ(Java専用プロセッサ)というアイデアも出ていた。

 要するにSunは,Java言語を特定用途向けの技術と限定するのではなく,本当の意味で汎用技術に仕立て上げようとしていた。コンピュータ産業や,組み込み機器産業が今までに蓄積してきたソフトウェア資産とは別に,それと同等以上のものを築き上げようという大胆な試みである。

 大胆ではあるが,見方を変えればこれは自由な新天地に進出できるチャンスでもある。皆がJavaに取り組めば「Java市場」が立ち上がる。その中で,早い段階でJavaを手がけた企業は先行者利益を得られるチャンスもあるだろう。こうした考えから,JavaOneレポートの見出しには「新大陸」という言葉を使った5。従来型のプラットフォームが,既に強者と弱者がある程度固定した旧大陸だとすれば,新大陸では皆が同等のチャンスがあるはずだ。Java市場は「新大陸」と呼ぶのがふさわしいのではないか。肩に力が入りすぎだと思われる方もいるだろうが,「今起こっていること」を正しく伝えるには,それぐらいの表現が必要だと考えた。

偶然性とコミュニティに支えられた

図3●Java技術が成長した要因
三つの要素に支えられて,今日のような進化を遂げた。

 私とJavaとの出会いを段階別に説明してきたが,これはJava技術が「ブレイク」していく過程と重なっている。

 第1段階の時点では,Javaはインターネットに公開された言語処理系のプロトタイプに過ぎなかった。だが大勢の開発者がそれをダウンロードし,ブームが起こった。

 第2段階の時点では,Sun Microsystems(というより,SunのJavaSoft部門)はJava技術のブームの勢いに乗って,大きく発展させようとしていた。前出のJohn Gage氏の発言は,その動きを背景としたものだった。

 第3段階のJavaOneの時点で,Sun(JavaSoft)の熱意と,大勢の開発者の支持とが初めて噛み合った。Java技術が本当の意味でブレイクしたのは,第1回のJavaOneの時点だと私は考えている。本当に参加者が集まるのか主催者側も予測できなかったし,JavaSoftがこれほど大胆な将来像を描いているとは参加者である私も思っていなかった。このサプライズが,Javaの初期を支えた。

 Java技術が普及したのは,Sunの技術やマーケティングが優れていたからだ,とは言い切れないところがある。それよりも,当時の多くのエンジニアが望んでいたものをGosling氏らが作り,それをインターネットで公開したことが,結果として大きな力につながった。Sun(JavaSoft)の功績は,このムーブメントをチャンスと捉え,大胆な開発計画を描いたことにある。

 つまり,企業の技術開発プロセスとして見れば,Javaはお手本とはならない。同じやり方で成功する保証は全くない。Java技術の進化の過程では,偶然が働いている部分が多いからだ。さらに,コミュニティ動向という外部要因に依存する部分も大きい。
 だが,このことはJava技術をここまで成長させた原因でもあると私は考えている。Java技術の発達のプロセスは多くの偶然や,開発者コミュニティでの議論をうまく取り込んでいる。その結果として,大筋では正しい方向に進化しているといえるのではないか──これが私の仮説である(図3[拡大表示])。


星 暁雄 Akio Hoshi

日経BP Javaプロジェクト 編集委員
1986年より日経BP社で記者兼編集者として活動。1997年から2002年までオンライン・マガジン「日経Javaレビュー」を編集。現在はイベント「J2EEカンファレンス」やメールマガジンIT Pro-Java Radar,単行本の編集などを手がける。Java技術が「軽量化」する動きが予想外に早いことが気になる今日この頃。