非常識への挑戦

 さて,“注射器にハンダごて”の事件をきっかけに実用化への研究開発が始まったわけであるが,実用化までは苦闘の連続であった。

 基板上に小さなヒーターを配列したプリントヘッドは,既に存在していた。感熱紙を使った記録方法で実用化されていたものだ。このヘッドの上に,インクを通すための溝を作ったフタをかぶせてノズルを作れば,簡単にサーマルのヘッドはできそうに思える。

 しかし,現実はそう簡単にはいかなかった。ヒーターで熱するのが感熱紙ではなく,インクだからである。サーマル方式の場合,半導体で作られたヒーターにインクを隣接させる。半導体素子にとって,電解質を含む水分は当然ながら大敵である。このためサーマル方式のアイデアは,当時ほとんど誰もが非常識で非現実的と考えていた。特に苦労した問題は三つあった。Passivation,Kogation,Cavitationである。これらの壁を一つひとつクリアして,1985年にようやく実用化にこぎ着けた。

ヒーターとインクを絶縁できない

 Passivationとは,ヒーターとインクの電気的な絶縁である。ヒーターに隣接するインクには,たくさんの電解質が溶け込んでいる。絶縁するために,両者の間に膜を作る必要がある。しかし,これが簡単ではなかった。

 感熱記録用のヘッドでも,磨耗を防ぐためにヒーターの表面には保護膜が設けられている。感熱用の場合,たとえ保護膜に微細な穴が開いていたとしてもあまり大きな問題にはならない。ところがサーマルの場合,相手はインクである。液体なので,どんなに小さな穴でも入り込んでしまう。完璧に欠陥のない保護膜を作らなければならない。

 一般的には,膜の欠陥を防ごうとすれば膜を厚くすればいい。ところがサーマルの場合,膜は厚くできない。保護膜を通してインクに熱を伝え,膜沸騰させるためだ。保護膜をむやみに厚くすると,熱が十分に伝わらずインクをうまく打ち出せなくなる。薄く欠陥のない保護膜を実現することが必要だった。

熱したインクが焦げてしまう

 次なる壁が,Kogationである。この単語は,英語にしてはちょっと変だと思われるかもしれない。実は日本語の“コゲ”からできた言葉である。今では,れっきとした国際的に通用する技術用語となっている。文字通り,ヒーター上にできるいわゆるコゲの問題を指している。

 サーマル開発の当初,ヒーター上にすぐにコゲが発生し,インクはあっという間に飛び出さなくなってしまった。ヒーターの表面は,瞬間的には数百℃に達する。高温にさらされるのはわずか100万分の1秒程度ではあるが,コゲは少しずつ堆積していく。数百万回繰り返されると,貯まり貯まったコゲで熱が伝わらなくなってしまうのであった。

 最初は,いったい何が焦げるのかすらよく分かっていなかった。やがてインクの中に含まれるいくつかの不純物がコゲを発生させていたことが突き止められた。

泡消滅時の圧力でヒーターが破損

 残る課題はCavitationである。泡が消滅する際に強い衝撃が発生する現象のことである。

 先に述べたように,サーマルでノズル内に発生した泡は,気化直後は100気圧近い高圧を発生する。しかしわずか100万分の1秒後には,泡の内部はほぼ真空状態になる。この真空の泡は,10万分の1~2秒程度というわずかな時間で押し潰されて消滅する。この瞬間非常に強い衝撃が発生し,ヒーターの表面に穴が開いて破壊してしまう。

 タンカーなどの巨大船のスクリューでも,設計が良くないとあっという間に羽根が折れてしまうそうである。これも実はCavitationの仕業である。スクリューが回転する場合,羽根の上流側のスクリュー表面近傍は急速に減圧される。すると水中に無数のほぼ真空の気泡が生まれ,すぐに消滅する。この消滅の瞬間に発生するCavitationによって,スクリューの羽根は破壊されてしまうのである。

 このように,Cavitationは硬い金属をも破壊するほどのすさまじい破壊力を持つ。ヒーター表面の材料を徹底的に追究することで強度を高めた。さらに衝撃自体を緩和する流体力学設計を施すことで問題を克服し,今日に至っている。

中島 一浩 Kazuhiro Nakajima

キヤノン インクジェット技術開発センター
1984年,東北大学大学院(生物物理学)修了後,大手事務機メーカーを経てキヤノンに入社。一貫して各種デジタルプリント技術の新規技術開発を担当し,1990年よりバブルジェットの技術開発・製品開発に従事。現在,インクジェットだけでなくプリント技術の総合的な技術解析に携わっている。