小さなインクを高速かつ正確に打ち出すインクジェット・プリンタには高度な技術がいくつも詰めこまれている。その中でも主要な要素の一つが圧力発生機構だ。主な実現方法は2種類あるが実用化するにはどちらもさまざまな工夫が必要だった。筆者が開発に携わるサーマル方式にも,大きな三つの壁があった。

(本誌)

 2004年の正月,我が家に届いた年賀状の8~9割はインクジェット・プリンタで作られていた。私はインクジェット・プリンタに携わって14年になるが,これだけ普及する日が来るとは正直言って想像できなかった。

図1●年賀状発行枚数の推移
インクジェット年賀ハガキは,2000年には6億3299万枚(15.0%),2001年には11億8746万枚(30.2%),2002年には14億枚(36.2%)と着々と増加している。2003年末は19億5000万枚(43.8%)とほぼ半数にも迫る勢いであった。日本郵政公社(旧郵政省)の報道発表資料を基に作成。
図2●インク滴の大きさ
空中を飛んでいる2ピコリットルのインク滴の直径は,日本人女性の平均的な髪の毛の1/5にすぎない。

 旧郵政省の数字によると,初めてインクジェット対応の官製年賀ハガキが発売されたのは1997年11月。発行枚数は2億枚で,年賀ハガキ総発行枚数のわずか4.8%であった。この年,発売後あっという間に売り切れてしまい,辛うじて入手したのをよく覚えている。その後,インクジェット年賀ハガキの割合は年々増えている(図1[拡大表示])。その伸びは驚くべきものだ。

 急速な普及の原動力となったのは,なんと言ってもインクジェット・プリンタ技術の進化であろう。今や,店頭で1万円から3万円程度で買えるプリンタでさえ,画質的には銀塩フィルムの同時プリントを十分に凌駕するほどである。4万円程度と少し値の張るプリンタなら,高級印画紙での印刷と遜色ない。

 これほどの高い印刷性能を達成するため,インクジェット・プリンタの小さな筐体の中には高度な技術の数々が詰めこまれている。しかし,残念ながらユーザーにはそれが実感しにくい。心臓部が機械の内部に隠れていて直接見られないからだ。またプリンタの場合,低価格なだけによけいにその技術の素晴らしさを分かってもらいにくいようにも思う。インクジェット技術の数々の進化とともに歩んできた技術者の一人として,是非この場を借りてその技術の真髄を感じていただきたいと思う。

液体のインクで絵を描く

 まず,インクジェット・プリンタの基本的な原理を改めて説明したい。インクジェット方式は,液体のインクを微細なノズルから一滴ずつ飛び出させて絵を描く。この方式は小型化しやすく,ランニング・コストが低いというメリットがある。

 インクジェット方式以外に,レーザー・プリンタやコピー機でおなじみの電子写真方式や,小型のデジタルカメラ専用プリンタなどで使われている熱転写方式などがある。電子写真方式は,感光体と呼ばれるドラムを用いて画像を作る。感光体は光が当たると電気抵抗が下がる性質がある。これにトナーと呼ばれる色の付いた直径数μmの粉を付着させ,それを紙の上に転写してさらに熱を加えて定着させる。普通紙にも鮮やかに印刷できることから,オフィスなどで広く用いられている。ただたくさんの部品を組み合わせなくてはならないため,小型化が難しい。また,粉には流動性はあるが,機械の中で自由自在に引き回すのは困難だ。これも小型化を阻む一因となっている。

 熱転写方式では,色の付いたフィルムと紙を重ね,熱を加えてフィルムの色材を溶かして紙に写す。熱の加え方によって色の濃さを調節できるため,細かな階調表現が可能である。ただ,ランニング・コストの面で効率的ではない。1ページにたった1個の点を印字するためだけにも,1ページぶんのフィルムを消費してしまうからだ。小型化にも限界がある。フィルムを送るために,送り側と巻き上げ側に二つのロールを配置しなければならない。

 この点インクジェットならインクは液体なので,ごく細い管で自由に機械の中を引き回せる。また,印字に必要な分のインクしか基本的に消費しない。

小さなインクを高速に打ち出す

 インクジェット・プリンタの中でも,特に技術の粋が集められているのがプリント・ヘッドである。インクを吹き出す部分のことだ。ヘッドには,数多くのノズルが設けられている。各ノズルの先端部分には,インクが飛び出す穴(吐出口)が開いている。ノズルの内部には,信号に応じてインクに圧力をかけて押し出すための機構(アクチュエータ)が配置されている。

 吐出口から飛び出すインク滴は,基本的に小さい方が望ましい。インク滴が細かいほどざらつきのない滑らかな階調表現ができ,高画質な画像を印刷できるからだ。このためインクジェット・プリンタのインク滴は,年を追うごとに小さくなっていった。最近のインクジェット・プリンタでは,わずか2ピコリットル以下にまでなっている。今から約10年前に発売された初めての本格的カラープリンタ(1994年2月発売の「BJC-600J」,当時は12万円もした)と比較すると,約20分の1にすぎない。

 ピコリットルとは10のマイナス12乗リットル,すなわち1兆分の1リットルのことである。これだけではピンとこないかもしれないが,1ピコリットルとは1辺が10μm(100分の1mm)の立方体の体積である。2ピコリットルのインク滴が空中を飛翔しているときの直径は16μm程度である。日本人女性の髪の毛の平均の太さが約80μmだそうであるから,その細かさがお分かりいただけると思う(図2)。

 ただ,インク滴が細かくなるとそのぶんたくさんのインク滴を紙に落とさなくてはならない。このため,単位時間に打ち出せるインク滴の個数を増やさなければならない。このための努力も平行して続けられている。例えばキヤノンの「PIXUS 990i」の場合,1秒間に最大1億個以上のインク滴を吐出させる能力がある*1。この能力によって,A4サイズの写真をほんの50秒ほどで印刷できる。

中島 一浩 Kazuhiro Nakajima

キヤノン インクジェット技術開発センター
1984年,東北大学大学院(生物物理学)修了後,大手事務機メーカーを経てキヤノンに入社。一貫して各種デジタルプリント技術の新規技術開発を担当し,1990年よりバブルジェットの技術開発・製品開発に従事。現在,インクジェットだけでなくプリント技術の総合的な技術解析に携わっている。