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 2月最後の週末に情報化研究会のメンバー8人で兵庫県の日本海側にある城崎と竹野町へ出かけた。目当ては冬の味覚,松葉ガニだ。東京から私を含む4人,関西から4人が参加した。この旅行プランの下敷きは昨年亡くなった紀行作家宮脇俊三さんの本,「途中下車の味」(1988年新潮社刊,現在文庫に収録)だ。私はこの本を88年に大阪の阪急梅田駅にある紀伊国屋で買ったのだが,それ以来繰り返し読んでいる。のんびりした旅行気分が味わえるだけでなく,宮脇さんの温かい人柄がにじみでた軽妙な文章が好きだからだ。

 この本の最初に収められているのが松葉ガニを食べに行く旅行記なのだ。いつか自分も同じ旅をしてみたいと思っているうちに16年も経ってしまった。本と同じに金曜日の夜9時すぎに東京駅を発つ寝台特急「出雲」で城崎へ向かった。サンフランシスコから成田に着いたばかりのWさんが自宅にも帰らずそのままやって来た。「おいしいカリフォルニアワインを最低3本は買って来て下さい」と頼んであった。びっくりしたのはWさんがユナイティッド航空のワイングラス4個を貰ってきていたこと。安直な紙コップで飲んだのではいいワインが台無しになるところだ。出雲の食堂車で3本のワインとカマンベールなどのチーズ,グラスを並べると,高級レストランにも負けないテーブルが出来上がった。4人でワインと窓外の夜景を楽しみながら夜中の1時までとりとめのない話をした。

 さて,今回のテーマはワインとも松葉ガニとも関係ない。3月23日に東京工業大学で開催された電子情報通信学会のチュートリアル・セッションでIP電話の講演をした。その中で触れた,今は「逆転」の時代だという話をしたい。

場違いな人間の価値

 私の前にメーカーの人や大学の教授が講演をした。「ここで話すことが名誉である」とかいう挨拶から始まる,キチンとした話だった。最後が私の番だ。「今日は大変場違いなところへ来ています」と切り出した。聞いている人たちがドキッとしたり,ムッとした表情になるのが分かった。場違いである理由を二つ言った。「皆さんは技術や製品を研究・開発していますが,私はそれを使うユーザーですから180度立場が違います。また,皆さんは理系ですが,私は純粋な文系です。しかし,場違いな人間の話の方が皆さんには面白いのではないかと思って今回の講師を引き受けました」。

 礼儀を重んじる大学の先生や研究者の方にすれば型破りに思えたことだろう。場違いな人間,異質な人間の方が自分にないアイデアや視点を持っているものだ。一石投じることが場違いな人間の価値だと思う。

三つの逆転

 講演の中で,「今は逆転の時代だ」ということを言った。ここでは三つの逆転について書きたい。企業と家庭,技術とアイデア,研究と実用,の逆転だ。

 かつて新しい技術や製品はまず企業で使われ,その後家庭に入ってきた。パソコンやLANがそうだ。しかし今は,新しい技術はまず家庭で使われ,遅れて企業に入る例が増えている。これが企業と家庭の逆転だ。例えばADSLは家庭には急速に普及したが,企業は「安いが品質は悪いもの」という先入観があり,なかなか使われなかった。ところが今では,小規模なオフィスをイントラネットに接続するアクセス回線として広く使われている。

 私は今年が企業にとってワイヤレス元年になると思っているが,無線LANも家庭では当たり前に使われている。企業は,セキュリティ問題が指摘されていることもあり,なかなか手を出そうとしない。ここに来てセキュリティやQoS(サービス品質)を高める機能が充実し,無線LANは企業ユースでも離陸期を迎えている。

 企業では一向に普及しないIPv6もそうだ。IPv4のプライベート・アドレスを使えば十分なアドレス空間を確保できるため,現在使っているIPv4と互換性のないIPv6に移行するメリットは企業にない。しかし家庭では,ユーザーが知らないうちにデジタル家電にIPv6が使われることになりそうだ。IPv6の普及も企業より家庭が先行するに違いない。

 家庭のIT環境は企業と比べいろいろな意味で身軽なため,新技術を適用しやすいのだろう。これからも企業と家庭の逆転現象は続くに違いない。「家庭で使われている安くて便利な技術や製品を企業で使えないか」という発想が重要になる。

 技術とアイデアの逆転とは,技術よりもそれを使うアイデアの方が重要になった,ということだ。言い換えると,良いアイデアには希少価値があるが技術はありふれたものになったということだ。手前味噌だが,このコラムで紹介したルーターレス・ネットワークは「ルーターは高価だから捨ててしまってレイヤー3スイッチだけでネットワークを作ればいいじゃないか」という発想から生まれ,IPセントレックスは「PBXの設備コストが高いのだから,PBXを捨てればいいじゃないか」というアイデアから生まれた。

 これらのアイデアを実現する技術は,Ethernet,IPルーティング,SIP(Session Initiation Protocol)と言ったごく普通の技術だ。SIPは99年に生まれた比較的新しい技術だが,決して複雑なものではない。やりたいことさえ明確になれば,それを実現する技術は簡単に手に入るアイデア勝負の時代になったのだ。

 研究と実用の逆転とは,研究のスピードより実用の方が速いということだ。かつてネットワークの世界で新しい技術を生み出したのはNTTなどの研究所だった。しかし,もうかなり以前から米国ベンダーの製品が実現する技術の方が,研究所の技術を追い抜いている。筆者が今一番関心を持っている無線LANでもそうだ。

 電子情報通信学会から送られてきたCD-ROMの論文集を検索し,無線LAN関係の論文を探した。やはりかなりの研究結果が紹介されている。注目したのは無線LANでのQoS制御の研究だ。無線LANのQoSはIEEE802.11部会で「IEEE802.11e」として規格化されつつあり,方式には優先制御型と帯域保証型がある。現状の無線LANは同一アクセスポイントに収容された端末が共通の無線チャネルを共用する仕組みのため,優先制御型では端末数が増えるとQoSを保証するために十分な無線チャネル占有時間を確保できないという問題がある。ある実験では無線VoIP端末が同時に6端末以上通話すると音が途切れるといった結果も出ている。CD-ROMで見つけた論文では,優先制御型ではなく,帯域保証型の方式を使い,しかも音声かストリーミング(映像)かによって送信キューの割り当て方を変えるという工夫によってQoS保証をしつつ,多くの端末が同時に通信できる方式を提案している。

 この論文はタイムリーで優れたものだと思うのだが,現実の製品はさらに先に進んでいる。ワイヤレス製品は今,「第3世代」と言われ,セキュリティ,QoS,マネジメントの機能が著しく充実している。例えばQoSについては,無線送信しているフレームの内容がSIPメッセージなのか,音声を入れたRTPパケットなのかを識別する。それだけでなく,64kビット/秒でデジタル化された音声RTPパケットは20ミリ秒に1個の割合でパケットが生成されるので,無線チャネルの割り当ても20ミリ秒周期という徹底ぶりだ。従って無線チャネルの割り当て効率を高くでき,同一AP下であっても20台を超える端末が同時通話できる。

 研究より実用,特に米国での実用が先に行くのは何故だろう。企業家精神の有無だと私は思う。ついでにもう一つの逆転の話もした。「こんなふうに文系の私が理系の皆さんの前で講演するのも逆転現象の一つかも知れませんね」。

 逆転の時代は面白い時代だ。今までがこうだったから,これからも,と諦めるのはつまらない。一発逆転の発想を追求したいものだ。

100年の仕事

 旅の話に戻る。城崎で温泉につかり,夜は竹野町の民宿で新鮮な松葉ガニを堪能した。翌日曜日,宮脇さんが本で紹介している余部(あまるべ)鉄橋を見学した。山陰本線の香住と浜坂の間にある鉄橋だ。鉄橋というと川をまたぐものと思うだろうが,この鉄橋の下に川はない。山の中腹を走る山陰本線が山と山の間の狭い平野部をまたぐための鉄橋だ。

 この鉄橋が鉄道ファンに有名なのはトレッスル式という独特の様式にある。普通の鉄橋の場合,それを通過するときに列車の窓から斜めに格子を組んだ鉄骨が見える。だが,余部鉄橋では何も見えない。41メートルの高さにある線路を鉄塔の列が支えているだけなのだ。宮脇さんの表現だと「橋を渡ると空中に放り出された」ようになる。この鉄橋は92年前,明治時代に米国人技師が設計した。100年残っている仕事なのだ。ネットワークの世界で,そんな仕事ができると素晴らしいのだが。

(松田 次博)

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松田 次博:情報化研究会主宰。1984年より,情報通信に携わる人の勉強と交流を目的とした情報化研究会を主宰。近著に東京ガス・IPセントレックスなど,先進的ネットワーク設計手法を解説した「企業ネットワークの設計・構築技法−広域イーサネット/IP電話の高度利用」がある。NTTデータ勤務。趣味は,読書(エッセイ主体)と旅行。